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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


【貴賓室】へはこちらの階段からお進みください。
貴賓室へ
ゲスト作家さまの作品がお楽しみいただけます。

    『お楽になさって』
    そう告げた女官が消えてから、もうずいぶん経つ。
    水庭園をはさんで6つずつ建つ東屋あずまや東屋の1つに、彼女はいた。便宜的に“東屋”と呼ばれてはいるが、その建物はそれぞれがじゅうぶんに、小宮とも言える調度を誇っている。
    マルリー宮。
    ここに招かれることこそ、貴族にとって最高の栄誉。
    「ふっ。何が栄誉なものか」
    かなり長い時間待たされて、不安を通り過ぎた彼女は、もはや苛ついていた。
    どこの奇人、いや貴人だか知らないが、つらだけはしっかり拝んでやる。あとのことなど知るものか!
    手にした扇をパシパシと叩き…
    自然と思い浮かぶのは、アンドレのこと。
    あいつは私を待たせたりしなかった。約束には正確で、どんなに忙しくても、いつだって私を優先してくれた。
    疲れていても彼女が寝んでから眠り、彼女が目覚める頃にはすでに、屋敷の仕事をこなしていた彼。
    当たり前のように、アンドレを待たせてきた彼女。
    ……十何年もおまえだけを見て、おまえだけを想ってきた……
    あの薄暗い寝室で、無理やりに押し倒された日の告白。
    ……愛している。
    その声が、今告げられたかのように甦ってくる。
    『愛している!オスカル』
    ああ、姉上。
    彼女はキュッと目を瞑った。
    お召しのためのローブを着せられ、化粧を施される彼女を見守っていたマリー・アンヌ。
    『こんなに突然だなんて』
    寝所での処し方は、肝心な部分をまだ教えていない。
    どうしたものかしら。
    苦肉の策でマリー・アンヌは妹を、処女性を全面に押し出した清楚なイメージで仕上げた。
    経験豊富な殿方なら、察して気遣ってくれるはず。
    そして、彼女の耳もとで諭すように優しく言った。
    『どうしてもつらかったら、その御方を好きな殿方だと思うといいわ。目を瞑って、好きな人のことだけ考えてらっしゃい』
    『姉上も、そうされたのですか?』
    マリー・アンヌは内緒だと言って、小さく笑った。
    『オスカルったら、話をすり替えようとしているわね?その手には乗りませんよ。どなたなの?あなたにも想う殿方ぐらいいるでしょう?』
    『想う、殿方?』
    そのときは、フェルゼンを思い浮かべてみたのだが。
    「どうも違う」
    あの男は雄々しく高潔で、結ばれることのないアントワネットさまへと一生を捧げている。そんなフェルゼンだから、愛した。そうでなければ、愛しなぞしなかったのだが。
    正直なところ、彼女はフェルゼンが女に対していやらしく欲情するさまなど、考えたくもなかった。
    …18からの長きに渡る片恋も、所詮は憧れだったということか。
    それに引き換え、前触れもなく告白してきた幼なじみは突然くちびるを奪った上に押し倒し、『愛している、だから』という無茶な理由でブラウスまで引き裂いた。最終的には彼女の手を取り、『死にそうだよ』と泣き落としまでかけてきたのだ。
    びっくりして死にそうだったのは、こちらの方だというのに!
    「くっくっくっ」
    なんて間抜けで、なんて格好悪くて、なんて …愛おしい男だろう。
    そのことに気づけただけで、彼女はもう、吹っ切れた気がした。
    このあと寝所で何が起きようが、アンドレの間抜けづらだけを思い描いていればよい。この身はどうあろうとも、心まで穢すことは誰にも出来ないのだもの。
    マリー・アンヌは差し上げものとなる末妹に、それを教えたかったのだろう。
    …ありがとうございます。姉上。


    その頃。
    彼は厩舎にいた。
    カツカツッ。カツッッ!
    落ちつきなく打ちつけられる、蹄鉄の音。
    「おっかしいなぁ。どうした?」
    彼はもう長いこと、馬をなだめている。
    ジャルジェ家の厩舎には名馬ばかりが居並んでいるが、殊に彼女お気に入りの1頭が妙に昂ぶり、落ちつかない。もともと気難しく、彼女以外には扱いにくい馬ではあるのだが。
    「本当にどうしたんだろう」
    今にも暴れ出しそうな、彼女の愛馬。
    「オスカルに会いたいのか?あいつはまだ、マリー・アンヌさまのお屋敷から帰ってないぞ」
    彼は懐中時計を取り出す。
    …オスカル。
    ちょっと遅すぎる気はしていた。


    「ふぅ…ん、ここが寝所か?」
    腹の据わった彼女は、つかつかと次の間の扉へ近づいた。
    女官はこの東屋から出なければ、どこにいてもいいと言っていた。
    ならば。
    どんな寝所(ところ)か見ておこうじゃないか。
    彼女はガッと、扉を開いてみた。
    贅沢に広い寝室。
    流れ出る濃い香り。
    部屋の右手には豪奢な天蓋付きの寝台があり、左手奥のテーブルには、3つ枝の燭台が置かれている。
    すべてを照らし出すことのない、もどかしい光の朧。
    それに誘われ彼女は部屋に踏みこみ、そして。
    「バンっっ!!」
    大きな音を立て、扉が閉められた。
    反射的に振り返ろうとする彼女。
    だが。
    「動くな。命令だ」
    高圧的な声が響いた。
    “命令”
    なじんだ言葉に、考えるより先に体が反応し、彼女は息を殺したまま動けなくなる。
    背後から、キシ… と微かな音がした。どうやら扉の裏あたりに椅子でも置いてあり、そこに人が潜んでいたらしい。
    「待ちかねたぞ」
    「なん…」
    「“寝所へ連れこむ”というのは、私の趣味ではないのでね。興味を持ち、自発的に飛びこんでくるのを待っていた。ずいぶんと待たせてくれたものだな」
    もう1度キシリと音がして、立ち上がる気配がする。
    「そのぶん、楽しませてくれるのだろう?正直私はおまえがそのような姿で現れるとは思っていなかったのだが… まぁ、よい」
    「ぁ…っ!」
    突然視界が塞がれた。
    目隠し!?
    比較的落ちついていた彼女の胸は、一気に心拍数を上げた。


    ブルブルと嘶く彼女の愛馬。
    「寂しいのか?」
    療養に入ってからの彼女は、なぜだか却って忙しそうだった。馬たちの顔もろくに見ていない。
    「俺も少し寂しいよ。いつも一緒だったからな。でもあいつが元気になれば、また共に出勤できる。おまえもきっと遊んでもらえるぞ」
    平凡な日常を待つ、馬と従僕。
    そこに、いかにも気ぜわしい足音が響いてきた。
    「探したぞ、グランディエ!」
    「ジェローデル大尉!?なぜこんなところに」
    「説明している暇はない。馬を引け」
    突然そんなことを言われたって。
    あまりに唐突なジェローデルの登場に、彼はあたふたするしかない。従僕としては客間にご案内し、お茶でも差し上げる場面なのだ。
    「急げ、グランディエ。損なわれることのないジャルジェ准将を取り戻したいと思うなら」
    「おっしゃる意味がよく…」
    「愚鈍な男だ。比喩的表現を知らんのか。まったく雅さに欠ける」
    ジェローデルはくるりと背を向けた。
    「私の馬が屋敷裏の小路につないである。そこで5分だけ待つ」
    「大尉!?」
    足早に去って行く背中。
    屋敷裏?大尉がお忍びでジャルジェ家へ?
    訝しく思いながらも、彼は急ぎ馬具の支度を始めた。
    “損なわれることのないジャルジェ准将”
    どういうことだ?あいつは今、マリー・アンヌさまのお屋敷にいるというのに。
    馬具の並んだ棚から鞍を取り出し、馬たちへと目を向ける。
    その中で。
    彼女の愛馬とバシッと目が合った。
    先ほどまで猛り気味だった白馬が、賢く澄んだ目でじっと彼を見つめている。
    “連れて行け”
    そう言っているみたいに。
    ―― あいつに何か?


    理不尽に奪われた視界。
    「私の顔が見たいのか?」
    振り返ろうにも、うしろからしっかりと両肩を掴まれていた。
    「安心しろ。私がおまえを気に入ったら、嫌でも毎晩見せてやる」
    肩から手が滑り落ち、引っ掻くようにローブを引き下ろす。
    無理に押し下げられた絹が裂け、ピリッと小さな音を立てた。
    その音は本当に小さなものだったけれど、彼女を動揺させるにはじゅうぶんだった。


    併走する2頭の馬。
    目指すのはベルサイユ宮の北西8キロ。
    遠くはないが、近くもない。
    オスカル、もしもおまえに何かあったら。俺は死ぬぞ!!
    ジェローデルから大雑把な事情を聞き、懸命に馬を駆る彼。
    オスカル。このところのあいつの不安定な様子。あれはこんなに大きな秘密を隠していたからだったのか!
    『私はどうなってしまうのだろう』
    そう言って、不安を訴えた彼女。てっきり病状と休職中の職務のことだと思っていた。
    なんてバカだったんだ!
    あのときの、見たことのないような面差し。
    まさに今、あんな顔をして彼女が誰かに抱かれているかと思うと、叫びだしそうになる。
    あの娼館の話だって。
    あいつは娼婦と自分を重ねていたんだ。
    好きでもない男に体を許す(オスカル)を、俺がどう思うかと。
    どうして俺は気づかなかった?
    どうしておまえは話してくれなかった?
    オスカル!俺は… 死ぬぞ!!
    この数日を振り返り、彼は後悔の海に飲まれそうになっている。ギリギリで彼を支えるのは、まだ間に合うかもしれないという願いだけ。
    しかし。
    若干先行して疾るジェローデルの方が、さらに苦悩は深かった。
    彼女を救い出すこと。
    それは下手をすれば反逆罪を問われ、個人のみならず、ジェローデル家・一族に累が及ぶ。
    自分1人のことなら迷いなどない。
    しかし、あの方の窮地にどうして黙っていられよう。
    何度も繰り返された“寝所のたしなみ”。
    触れるたび、彼女の体にピクリと力が入るのが、ジェローデルには判っていた。彼女がそれを懸命に隠し、隠しきれていると思っていたことも。
    オスカル嬢!
    今あなたがあの時のように、震えだしそうな体を抑えているのだとしたら。
    彼女を救う完全な手段は思いつかないまま、ジェローデルはアンドレを伴いマルリー宮へと急ぐ。
    間に合ってくれればよいが。
    此度の労いと、あの爺たちに酒席を持たれ、先ほどまで釘付けにされていたジェローデル。
    けれど労いとは名目ばかりで、そこで噴出したのはレニエへの妬みと、彼女への下卑た興味だけだった。
    『あの生意気なジャルジェ家の小娘、今頃…』
    交わされる意味ありげな目線と含み笑い。
    『ジャルジェ将軍は、どこまで娘御を仕込まれたであろ』
    『純潔との触れ込みでしょう?ただ1度のお手つきと下賜されるのであらば、私が囲いものとして拾うてやってもよいが』
    耳の腐れ落ちそうな会話を堪えきったのは、ここで騒ぎを起こせば彼女を救いに行くことが出来なくなると、その一心だった。
    オスカル嬢、どうかご無事で!


    キリキリキリ…っ
    背中でまた、絹の引き絞られる音する。プツプツと糸の千切れる音も。
    後ろ身ごろを左右に割られ、むき出しになる羽根のような骨。
    このような扱いをされるとは。
    「声のひとつもあげぬなど、面白みのない。…いや。そうか、確かおまえはこちらの営みは初めてだったな。よかろう」
    うなじに、肌の引きつれる鋭い痛み。噛むように刻みこまれるくちづけの跡。
    熱がしみて、きっと傷になっている。
    それでも彼女は声をあげなかった。
    「意地を張ったところで、明日の朝には、今までとは違う悦びに喉を枯らすことになる。来い」
    視界を奪われたまま背を押され、乱暴に歩かされる彼女に今できるのは、せいぜいが胸もとを固く覆い隠すことぐらい。
    躓きながら部屋を横切り、寝台へと突き飛ばされた。
    うつ伏せの頬に触れる、ふわふわとした寝具の感触。
    捲り上げられるローブの裾と、閉じた内ももに割り込んでくる強引な手のひら。
    違う!ジェローデルとは…
    教えられたこととは全然違う!!
    視界が閉ざされているせいか、部屋を支配する空気からも慣れた手つきからも、歪曲した欲望だけしか感じない。
    かつてアンドレも、抑えきれない男の本能をぶつけてはきたけれど。
    何もかもが自分の知るものとはかけ離れていて、彼女はくちびるをキリリと噛み締めた。
    口を開いたらサベルヌのときのように、彼の名を呼んでしまいそうだった…


    マルリー宮の門兵は、ジェローデルの顔をまだ覚えてはいないようだった。
    しかし、最近近衛連隊長が交代したことは知っていたようで、真紅の軍服をちらりと目に留めただけで、2人を通す。
    白い軍服を重ね着したアンドレ。
    ジェローデルが用意してきたものだが、長身の彼が着れば、それなりに近衛将校らしく見える。
    「私が庭園で不審者を見かけたと騒ぎ、東屋を1つ1つ訪ねてまわります。そして、そこだと覚しき東屋を特定出来たら、職務を装って部屋に入りこみ、安全の確認だの防犯だのと大げさに調べて居座り」
    「その間に俺が…」
    「うむ」
    ジェローデルが囮になり、アンドレが彼女を連れ出してマルリー宮を抜け出す。
    彼女は不審者にさらわれたことにすればよく、そもそもが秘された此度の件。彼女が誘拐されたところで、表立って人を動かし、大々的な捜索を出来るはずもない。
    あとはほどよい頃合いで彼女が屋敷へ帰り、格闘の末になんとか逃がれてきたと、まことしやかに言い張ればいい。ついでに怪我でもしたことにすれば、当面のお召しは断れる。稚拙な手段だが、今は他に思いつかなかった。
    問題は、どう考えてもマルリー宮に不審者が入れるわけがなく、これではジェローデルと不審者が誘拐の共犯だと思われかねないことだが…
    「些末な。もうかまっている時間はありません」
    12ある東屋のどこに彼女がいるのか。ひと気のある東屋を、片っ端から訪ねて行くしかない。
    手間取れば、やがて本当に不審者捜索の警備が固められてしまうだろう。
    「始めるぞ、グランディエ。それと覚しき東屋が判明したら踏み込む前に合図をする。それまで身を潜めていろ。本物の近衛将校が通りかかったらまずい」
    髪を翻し、夜闇に消えるジェローデル。
    ああ!オスカル!!
    自分こそが今すぐ駆け出したい気持ちで、彼は生垣の散策路に低く張りついた。
    昂ぶりと逸りをどうにも出来ない彼は、合図を待つ悠長さなどとっくにない。ジェローデルが向かった方向へと陰伝いに移動していく。
    大尉、どうか早く!
    気が急いて、身を乗り出し過ぎたときだった。
    ――しまった!!
    水庭園のほとりを散策する貴婦人と、目が合ってしまった。
    いや。彼の視力では、本当に目が合ったかどうか判らない。貴婦人の方が、サッと扇を開いて顔を隠してしまったから。
    その優雅な所在。
    こんなときだというのに、彼はその貴婦人に見とれた。
    月の光が水面に映り、それが貴婦人の着るローブに反射している。
    白い清楚なローブに、蒼い波の揺らめき。それは結い上げた髪にも映えて、きらきらと光の雫がこぼれるようだった。
    月の精のような貴婦人は、散策の足をこちらに向けている。
    まずい!
    でも、逃げ出す方が余計に怪しい。
    彼はさも警備中の近衛兵のような顔をして、通路に出た。
    予想以上にみるみると近づく距離。
    夜目の遠目には判らなかったが、貴婦人は散策しているのではなく、小走りでこちらに向かって来ていたのだ。裾さばきにまろびつつで、ちっともスピード感がなかっただけで。
    それでもはぁはぁと息を切らしながら、目の前まで来たその貴婦人。
    ああ!
    扇ごしにも隠しきれず、はねた額髪と、彼お気に入りの金糸が肩先に揺れている。
    「「どうしておまえがここに!?」」
    同じ言葉で重なる2人の声。
    お互い、状況を簡潔に説明するための作文が頭の中で展開したが
    「アンドレ、とりあえずこっちだ。ついてこい!」
    まだ状況の読めぬ彼女にも、彼がマルリー宮の招待客でないことは判っている。近衛の軍服なんぞを着ているところを見れば、人目につきたくないことも瞭然。
    「ここだ、アンドレ」
    彼女は扇を翳したまま走り、目指していた東屋に彼を連れこんだ。
    「いいのか、オスカル。こんなところに入りこんで」
    「たぶん大丈夫だ。ここは今日1日、私が控えの間として与えられていた。まだ施錠前で良かったな」
    念のために灯りは点けず、2人は2階へと移動する。
    「この部屋が1番眺めがよく、明るいだろう」
    水庭園を臨んだ大きな窓。降りそそぐ月光。
    そこは確かに燭台などなくても、じゅうぶんに明るかった。
    けれど。
    向かい合い、扇を閉じた彼女を見て、彼は言葉を失った。
    彼女が豪華な扇で隠していたのは顔ではなく、乱れた胸もと。
    裂かれた生地やレースと、縫製がちぎれて垂れさがるフリル。(ひしゃ)げたリボン。
    落ちついて見れば、結った髪は緩く崩れていて、きれいに差されていたであろう紅の色も滲み、ぶれている。
    「オスカル…?」
    後頭部を鈍器で殴られたように、ぐらっと視界が揺れた。
    俺は、間に合わなかったのか?
    情けないほどよろめいて、しりもちをついた。
    すまない。
    すまなかった、オスカル。
    そんな想いがこみ上げて来たが、それを口に出せば現実に押し潰されてしまいそうだった。
    ここ数日を思い返せば、気づけたはずの場面はいくらもあったというのに。
    『私はどうなってしまうのだろう』
    おまえはあんなに不安そうにしていたのに。
    隻眼から、涙が落ちる。
    彼女が可哀想なのか、自分の不甲斐なさが悔しいのか、レニエにも国王にも“高貴な御方”とやらにも、そしてマリー・アンヌやジェローデルにまでも向かう憤りで、血が熱くなる。
    でも、もっとも腹立たしいのは自分自身だった。
    “おまえに何かあったとき、1番に手を差し伸べるのはジェローデル大尉ではなく、他のどの男でもなく、永遠に俺でありたい”
    おまえが俺の過ちを許してくれた夜、心密かにそう誓ったのではなかったか!?
    重く伏せた顔を上げると、彼女までもが座りこんで真ん前にいた。
    これだけ間近にすると、化粧の乱れがよく判る。
    くちびるは少し切れていて、紅にまぎれて血が滲んでいた。きっとくちびるを噛みしめ、そのときを耐えていたのだろう。
    うなじには、傷にも思えるくちづけの痕もある。
    優しくはしてもらえなかったのか…
    「オスカル、すまない。俺は」
    そうだ。俺も優しくはなかった。
    「アンドレ、」
    彼女は絶句し、床に突っ伏すと肩を震わせた。
    声も立てず、ひきつけでも起こしたかのように激しく肩を震わせて、そして。
    息苦しくなったのか大きく一呼吸おくと、ケタケタ笑い始めた。
    「アンドレ、おまえっ」
    「オスカル?大丈夫か!?」
    彼には、彼女が気が触れたかと思えた。
    が。
    「ジェローデルだ、ジェローデル。ばらのトリアノンはジェローデルだったんだ」
    「じぇ…?」
    「見初められたのは私じゃない」
    「じぇじぇ!?」
    「いわゆる両刀使いってやつだな、やんごとなき御方は」
    「じぇじぇじぇー!!」
    「落ちつけアンドレ。“ ジェ ロ ー デ ル”だろうが」

    あのお召しのひととき。
    寝台に突き倒された彼女は、内ももに侵入してくる男の手に、ただくちびるを噛みしめるしか出来なかった。悦んでみせることなど頭の片隅にもなく、嫌だとわめき出さないのが精一杯。
    コルセットの隙間から無理矢理に手を突っ込まれ、確認するようにしつこく胸を揉みまくられたときには、あと少しで本当に泣きそうだった。
    しかし。
    貴人とやらは途中からクツクツと笑い出し、彼女の目隠しを解いてくれた。
    『これは… 失礼した』
    『は…い?』
    そして、ことの次第が話されたのだ。

    「正確には、御方が見初めたのは、トリアノン宮の庭園裏で言い争いをしていた“私たちのどちらか”だった」
    ひと目で気を惹かれた御方は、世話役の女官を呼んで“あの者を”と所望を告げた。
    激論のあと。大階段に立ち尽くすジェローデルと、遠ざかっていく彼女の背中。
    御方はジェローデルの愁い顔に妖しい想いを抱いていたが、女官の方は、ご所望を彼女の方だと受け止めた。
    “男装の麗人 オスカル・フランソワ”
    お召しがあっても不思議ではないと。
    言葉足らずの掛け違いは修正されることなく、今日の日を迎えてしまったのだ。
    「まさか御方が、オトコのたしなみもある方だったとは」
    ――『確かおまえはこちらの営みは初めてだったな』
    男同士(こちら)も、男女のもの(そちら)も、私は純潔だというのに!!
    彼女は苦笑していたが、彼の顔色はハッと変わった。
    「それではジェローデル大尉は… まずいぞ、オスカル!」
    「どうした!?」
    「大尉は今、おまえを救うために東屋を訪ねてまわっている。お部屋に踏みこむのだと」
    「え”っ」
    所望された男が、所望した男の寝所へ踏み込む…?
    「でっ、でも」
    これで父上の言っていた“高度に政治的な問題”は果たされ、国王陛下の体面も保たれるのではないか…?
    「それが私たちのお役目で、私もそれを覚悟したのだし…な」
    彼女は袖口でくちびるをぐいと拭った。
    あの貴人(おとこ)
    非礼の詫びだとか言って、くちづけてきやがった。どれほど自分に価値を置いているのだろう。
    彼女にとって価値を感じる男は、今や1人だけだった。
    「よし!行くぞ、アンドレ」
    「でも、ジェローデルさまは!?」
    「大丈夫だ。あいつはいろいろ器用でなんでも上手い」
    そうだろう?ジェローデル。
    「ここを脱出したら、姉上の屋敷へ向かう。そこで着替えて」
    彼女はニヤリと笑った。
    「アラスに行くぞ!」
    「お…おうっ!!」
    2人は子供の頃のように、先を争って階段を駆け下りた。
    コルセットのきつい締めつけに、息の切れる彼女。
    「大丈夫か?」
    「ん… それよりも」
    マルリー宮(ここ)を出る前に、済ませておきたいことがある。
    彼を見上げる、艶っぽい瞳。
    黒髪に指をからませ、囁いた。
    「くちなおしを、アンドレ」
    吸うようにしっとりと、押しつつみ、忍びこんでくるくちびる。それは熱っぽくて弾力があって…
    この上ない悦びを感じた彼女は、彼に少しだけ指先を動かしてみる。
    …続きは……アラスで。
    彼女のくちびるは自分がしっかりふさいでいるというのに、アンドレには、そんなおねだりが聞こえた気がした。


    教えこまれた女性のたしなみは、どうやら役に立っているようだ。


    FIN
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