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【雨に濡れて、のち 3】 (2012 / 6月企画)
UP◆ 2012/6/20あとのことはよく覚えていない。
額に冷えた感覚を覚えて目を開けると、隊長が冷たいタオルを乗せてくれるところだったり、息苦しさに目を覚ますと、揺れる燭台の灯りに本を読む隊長の横顔が映っていたり、どれも断片的であいまいな記憶ばかりだ。
ただ、目が覚めるたびに隊長の青い瞳が俺を見てくれて、体はとてもつらかったけれど、その瞳の色は俺を幸せな気持ちにさせた。
…隊長、俺。俺はさ……
はっきりと目を覚ましたのは朝方だった。
衛生室に来たのは、昨日の、たぶん午後を過ぎた頃だったと思うから、俺は相当眠っていたことになる。
夜明けの蒼白い部屋。
上掛けが引っぱられる微かな重みに目をやると、椅子に座った隊長が、俺の腹のあたりに伏せた姿勢で眠っていた。
ずっと付いていてくれたのか。
広がった金髪が、鈍く光って枕もと近くにまで流れている。
俺はその髪を少しだけ手に取った。
初めて触れる隊長の髪は柔らかく、俺はさっきまで見ていた幸福な夢の続きを見ているような気がした。家がここまで零落する前、母親がおっとりと微笑み、ディアンヌがまだやっと歩き始めた頃の穏やかな。
「調子はどうだ?」
静かな声がした。
アンドレだった。
腕を組んで、扉近くの壁に寄りかかっている。
俺はできるだけさり気なく、隊長の髪から手を離した。
「よく眠ったおかげで、ずいぶん良くなったよ。それよりおまえ、居たんなら隊長をこんなところでうたた寝させないで、空いてる寝台にでも寝かせてやれば良かったのに」
衛生室の寝台は俺が1つ使っているだけで、空きなどいくらもある。
「いいんだ、アラン。おまえが邪魔じゃなかったら、そこで眠らせてやってくれ。オスカルがそこにいたいんだろうし、もし起こしてしまったら、俺はここに来ていたことを知られたくないから」
『オスカルが』
そこにアクセントを置きながら、アンドレはなんとも微妙な笑顔を見せた。
「オスカルも熱があるんだよ。だからおまえに付き添うことで、少しでも休めて良かったんじゃないかな」
「ぁあ!?」
即座には、意味が飲みこめなかった。
熱がある、だと?
「雨に濡れたせいだろうな。一昨日の演習の夜から、オスカルは熱があるんだ。フラついて膝をついたのは、本当に調子が悪かったからだよ」
「じゃあ余計、こんなところで眠らせておくわけにはいかないじゃないか」
起こしてしまわないようにゆっくりと半身を起こすと、俺は伏せている隊長の首筋に、そっと手を差し入れてみた。
まだ熱のある俺の手よりも、そこは熱い。
昨日、隊長に握られた手があんなに熱かったのは、俺が緊張していたからじゃなく、隊長の方が熱が高かったからなのか。
「オスカルは熱があることを誰にも見抜かれていないと思っている。だからヘタに気遣わずに、そこで寝かせておいてやってくれ。こいつは、心配されることを極端に嫌う。俺にすら不調を隠すぐらいだ」
「おまえにまで?そこまで無理しなくてもいいんじゃないか?」
「確かにな。でも、そこまでやらないと『だから女は』と言われるんだよ」
アンドレはため息をついた。
「おい、アンドレ。おまえはそれでいいのかよ。そんな隊長を、黙って見ているだけでいいのか。今だって心配で見に来てるくせに、何も告げなくていいのかよ。どうせ長いこと、そこでそうしていたんだろう?」
落ちついて、悟りきったアンドレのその態度。
気に入らねぇ。
だってそうだろう!?
誰も気づかない具合の悪さを知っていて、黙ってる?
なんだ、ソレ。気遣いを気づかせない気遣いってなんなんだよ。
俺だったら「俺だけは気づいてる、判ってる」と言ってやりたい。「だから安心しろ」と。
こんなに熱のある隊長を軍務につかせるなんて、俺なら絶対にさせねぇ。
大事にしてやるって、そういうことじゃねぇのか、おい!
神経が沸々と波立ってくる俺とは正反対に、アンドレはひっそりと静かだった。
つかの間、眠る隊長を見つめてから、その隻眼を俺に視線を戻す。
「いいんだよ、俺は。オスカルが気づいて欲しくないと思っていることは、俺は知らないことでいい。武官としてのオスカルは、いつもこの上なく張りつめている。より完璧であろうと痛々しいぐらいだ。無理しているのを見抜かれて、気遣われていると知ったらきっと……傷つくだろう。武官として不甲斐ない、と、そんなふうに思ってしまうしまうんだよな、こいつは。ばかだろう?」
「おまえも…バカなんだよ」
俺はここでひと息つき、そして探るように続けた。
「隊長のこと、好きなんだろう?何も言わずにただ見守るだけじゃ、伝わらないじゃないか」
俺は真剣に聞いたのに、アンドレは人懐っこくニコニコと笑った。
「オスカルは妹みたいなもんだよ。一緒に育ったから、おまえより少しオスカルのことが判るだけだ。手のかかる妹が危なっかしくて、目が離せないんだ」
「妹、な」
嘘つけ。妹をそんな目で見る兄貴がいるか。
「でもそう考えると、オスカルとアランはちょっと似ているな。甘え下手なところとか、素直になれないところとか。要するにまだ、ケツの青いガキだってことだ。ぷぷぷっ」
「おいっ!おまえ結局それが言いたかっただけかよ!!」
「アラン、声でかい。オスカルが起きるだろ」
あ。
「俺、もう戻るよ。おまえも目が覚めたことだし、こいつを任せてもいいだろう?」
「俺はいいけどよ。おまえはいいのか」
「何が?」
アンドレは本当に、意味が判らないみたいだった。
「何って、心配じゃないのかよ。俺と隊長を2人きりにして。俺には前に…イロイロ…あっただろうが」
俺がそう言うと、ヤツははっきりと小バカにしたように笑った。
「まるで心配ないな。今のおまえは、オスカルに何もできない」
「そんなの判らないだろう?」
「おまえが?こんな状態のオスカルに?ムリムリ。元気なときないざ知らず、調子が悪くて寝入っているオスカルに、おまえが何か出来るわけがない。だいたいそういう空いばりをするところが、ガキだって言うんだよ。ぷぷ」
「カラいばりじゃないかもしれないじゃないか!」
「はいはい。空いばりじゃないかもなぁ。ああ心配だ。すごく心配だぁ~」
アンドレはわざとらしく、胸に手をあてて憂いて見せた。
「さぁてと。俺、本当にもう行くぞ。オスカルには俺が来てたこと、絶っっ対に言うなよ。じゃあな、ガ・キ」
アンドレは最後まで俺をバカにして、衛生室を出て行った。
ちくしょう、アンドレめ…
俺はヤツが出て行った扉をしばらく眺めていたが、軽い疲労と共に、隊長へと目線を落とした。
伏せたまま、身じろぎもしない隊長。
調子が悪いというのは、本当なんだろう。熱があるのはもちろんだが、普段の隊長であれば、俺とアンドレがこれだけしゃべっていて気がつかない人じゃない。
いつもは冴え冴えと白い頬に、赤味がさしている。額にかかる髪がうっすらと滲んだ汗に張りついて、小さく聞こえる呼吸も速い。
こんな不調を、他人に気づかれないように?
アンドレにまで?
平気な顔して指揮を取るって?
ホントにバカじゃないだろうか。
俺は無性にイライラしてきた。あまりにも頑ななこの女に。
身分からすれば、訓練なんかに顔を出さなくてもいい立場。ジャルジェ将軍の末娘なんだろう?休んだって誰にも文句なんざ言われない。たとえ仮病で休んだとしたって、俺たちと違って、減俸されるわけでも処分されるわけでもないんだ。そんなご身分じゃないか。
いや、それよりも。
そうだ、苛立つのはそこじゃない。
俺は隊長の不調に気がつかなかった。
振り払おうとしても、俺の心から出ていかない女。俺が捕らわれた、ただ1人の。
いつも気にかけていたつもりなのに、なんで気づいてやれなかったんだろう。
何よりもそこに腹が立つ。
ヤツは判っていたのに、俺にはいつも通りの隊長に見えていた。
結局、俺なんてその程度か。どんなに想ってみても、アンドレには及びもしないのか。
それが腹立たしく、苦々しい。
ヤツは言っていた。「見守るだけでいい」と。隊長は完璧であろうとするから、気遣われることですら傷つくのだと。
俺は…いやだ。
気づいてしまったら、見ているだけなんてできない。
ヤツみたいにはなれないし、なりたくもない。
隊長がこんな状態で軍務につくというのなら、傷つけたってかまわない。問いつめて、閉じこめて、どこへも行かせない。
『大丈夫、全部判ってる』
そう言ってやりたいじゃないか!
俺はもう1度、隊長の髪に触れた。
あんたがそれほどまでに傷つきやすいというのなら、その心を俺に預けてみろよ。俺が守ってやるから。無理なんて、する隙もないぐらいに。
だから、だから隊長…!
俺はつりこまれるように、隊長の頬に触れていた。女そのものの、滑らかな肌に。
「…ぅ…ん……」
長いまつげが揺れる。
起こしたか!?
俺はハッとして、素早く手を引いた。悪いことをしていたわけでもないのに、めちゃくちゃにドキドキしてくる。
隊長はゆっくりと目を開くと、身を起こして視線をさまよわせた。
その瞳は熱のせいか潤んでいて、ひどく色っぽい。
「ああ…アラン。…ん…と、そうだ、衛生室だったな。私…は、眠っちゃったのか」
いつもの隊長とは違う、もちゃもちゃと寝ボケたような舌足らずが、妙に愛らしい。
でもそれは一瞬のことで、すぐに隊長は強い瞳と冷静な口調を取り戻した。
「気分はどうだ、アラン。少しは良くなったか」
「おかげさまで。まずまずです」
「そうか。それは良かった。苦労して薬を飲ませたかいがあったな」
薬?
俺にはそんなもん飲んだ覚えがないけれど、床頭台に目を向けると、大きめのゴブレットに煎じ薬らしき薬湯が残っていた。たぶん熱さましなのだろう。
「あの、隊長は?」
「私が何か?」
「こんなところでうたた寝をしていたから、大丈夫かと」
「ああ、すまない。うっかり眠ってしまったな。でも軍人はどこでも眠れないとな。って言い訳は駄目か」
隊長は1人、くすくすと笑った。
「さて。おまえが大丈夫なら、私はそろそろ戻るぞ」
「今日も行軍の演習ですか?」
「ああ。この朝焼けなら、今日は天気が良さそうだ。いい訓練ができそうだな。アラン、おまえはまだ休んでおけ。命令だ」
休んでおけ、だと?
その言葉は、イライラの崖っぷちにいた俺の背中を突き飛ばした。
休まなきゃいけないのは、あんたじゃないか。なんで俺に…隠すんだよ。
ちっくしょう、ホントに気分が悪い。あんたが隠すんだったら、俺の方から言ってやる!
「隊長っ」
俺をムカつかせている当の本人は、ちょうど立ち上がろうとしたところだった。
「あんた俺には休めだの素直じゃねぇだのもっともらしいこと言ってるくせに自‥」
俺は勢いこんで言いつのろうとしたが。
隊長が不自然に動きを止めた。
軽く眉根を寄せて、きつく目を閉じている。
もしかして、立ちくらみ?
おい。もし倒れられたら、俺、どうしていいか判んねぇぞ。っていうより、何するか判んねぇぞ。
内心かなりとっ散らかりながら、俺はわちゃわちゃと寝台から降りた。
「あ‥の、隊長?」
ともかくも支えようと、肩に手をかける。
振り払われるかと思ったが、ギュッと目を閉じて立ちくらみに耐えている隊長は、俺にかまう余裕などないらしい。
大丈夫なんだろうか。
肩に置いた手に力を込めることもできず、俺はジリジリする思いで見守ることしかできない。まったく…なんて無力なんだろう。
こんなとき、アンドレなら。
きっと気の利いた言葉の1つも言って、下心のかけらもない慎ましやかな笑顔なんか見せちゃって、それが大人の振る舞いで、女はそんな男が好きなんだろうけど、けっ、そうだよ。俺にはそんなことできないし、どうせ似合うわけもないさ。
どうせ、俺なんかには。
ああ、イヤだ。この女のことを考えると、最後にはいつも卑屈な気分になっていく。
『ケツの青いガキだってことだ』
俺だって。
俺だって、好きでガキなわけじゃねぇ!
心がジワジワと塗りつぶされそうになったとき、ようやく青い瞳が開かれた。
「隊長」
目を開けてくれたことにホッとしたのか、負の思考が途切れてホッとしたのか、自分でも判らない。でも、とにかく俺はホッとして力が抜け、隊長の肩にかけていた手がずるりと落ちた。
「良かった。心配しましたよ」
隊長はジロリと俺を睨んだものの、まずいところを見られたとでもいうように、ばつの悪そうな顔をしている。
なにか取り繕う言葉を探しているのだろう。しばらく視線をさまよわせていたが、やっと見つけたらしい一言は、コドモじみて実にお粗末なものだった。
「なんか腹へっちゃって」
くだらねぇ。バカだ、この女。なんてくだらねぇんだ!
あんた腹が減ると、立ちくらみすんのか。
普段まじめ過ぎる隊長のド3流なごまかし方はひどすぎて、もう呆れるしかない。
隊長は気まずそうに背中を向けてしまうし、おかげで俺はぶつけてやろうとしていた言葉が言えなくなってしまった。具合の悪さを問いつめて、無理矢理にでも寝台に放りこんでやろうと思ってたのに。
でも。
そのド3流なごまかし方がなんだかかわいくも思えるような、でも胸の奥にある苛立ちやチラつくヤツの影や、そんなものがごちゃごちゃに混ざり合い
「隊長、俺!」
言えなくなってしまった台詞の代わりに、感極まった俺は隊長を背中から抱きしめていた。
隊長、俺はさ…
最終話へつづく
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