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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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貴賓室へ
ゲスト作家さまの作品がお楽しみいただけます。

    にぎわう路地を歩いていた。
    月あかりが彼女の金髪を淡く浮かび上がらせている。
    人波を縫ってゆらゆらと揺れる毛先を、彼は美しいと思いながら少し遅れてついていく。


    「久しぶりに飲みに行きたいな。明日は休みだし」
    彼女がそう言い出したのは、午後も過ぎた執務室だった。
    「それでしたらぜひ私もご一緒に。
    最近、ちょっと面白いお店を見つけましたので」
    向けられた言葉はあきらかにアンドレ・グランディエへのものだったのに、すかさずそう割りこむ副官に彼女は苦笑した。
    「ジェローデル。おまえ、仕事もぬかりないが、遊びの方も本当にぬかりがないな」
    「多少の遊びは貴族のたしなみのうちです」
    ああ言えばこう言う副官を適当にかわしながら、彼女は『彼』のことを考えていた。
    それはほんの2~3日前。
    王后陛下に謁見するフェルゼンにつきあっていたときのことだ。
    正確に言えば、わずかな恋人の時間を楽しむ2人につきあわされていた。
    フェルゼンが謁見を申し出ても、陛下と2人きりになるのは難しい。
    侍女や取り巻きの貴族たちに人払いをかければ、ただでさえ囁かれている噂に火を注ぐことになる。
    しかし、そこに近衛連隊長のオスカル・フランソワが同席していれば。
    王后陛下のオスカル・フランソワへの偏愛は有名であるし、フェルゼンと彼女の親友関係も周知のこと。
    彼女が同席していれば、王妃とフェルゼンは多少なりとも2人の時間を持つことができる。
    2人は彼女を信頼していたし、彼女は人の信頼には全力で応えるたちだ。
    そんなわけで、その日も彼女は2人のためにきっかけ役になったあと、恋人たちの邪魔をせぬよう、部屋を飾る豪華な調度品のひとつになりきっていた。
    なるべく2人から離れた窓辺で気配を消して、外を眺め、彫像のようにたたずむ。
    とりあえず仕事のことでも考えよう。
    もう12月も中旬を過ぎた。
    毎年近衛は下旬から年明けにかけて、怒涛の行事に忙殺される。
    彼女にも年末年始の休暇はあるが、連隊長になってからまともに休めた試しがない。
    今年も忙しいんだろうな。
    でもその方が気がまぎれていいかもしれない。
    その発想に自分の本音を見て、彼女は薄く笑った。
    そう。
    気がまぎれるのだ。
    何かに集中していないと、最近の彼女はフェルゼンのことばかり考えてしまう。
    それはこの「謁見のおつきあい」が原因に決まっている。
    だって彼女はもうずっと、密やかにフェルゼンを愛してきたのだから。
    口にも出さず、態度にも出さず、18の出会いから胸の痛みを軍服に押し包んできた。
    でも、もう限界かも…
    謁見につきあうようになってから、片恋の苦しさは加速度的に増している。
    そりゃ、そうだろう。
    愛している男が、相思相愛の女と目の前でいちゃついているのを感じていなければいけないのだ。
    視界に入れないようにしていたって、気配で判る。
    王后陛下の艶っぽい忍び笑いや、少しばかり乱れる息づかい。
    彼女はなるべく気を取られないよう、仕事のことや幼なじみのことなんかを考えてみるが無駄なことだ。
    全身の感覚が鋭敏になって、かえって2人の様子が手に取るように判ってしまう。
    ああ、やだやだ。
    何やってんだろ、私。
    こんな役割、断ればいいのに…できない。
    断れない。
    ……フェルゼンがいい顔で笑うから。
    「いつもすまないな、オスカル」
    そう言ってフェルゼンはめちゃめちゃいい笑顔を見せるのだ。
    本当にずるい。あんな顔。
    抗うことなんてできやしない。
    彼女は、精一杯凛々しい表情を作って「私にできることならなんでも言ってくれ」なんて答えてしまう。
    ああ、もう私、終わってる。
    …フェルゼン……好き。
    思考が恋の淵に沈みこみそうになったその時、不意に肩を叩かれた。
    「ぅわぁっっ!」
    派手に驚く彼女をフェルゼンが見おろしている。
    軍靴を履いた178センチの彼女を見おろせる男なんてなかなかいない。
    彼を見返す自分の首の上向きな角度にまできゅんときて、彼女は頬が熱くなるのを感じた。
    「どうした、オスカル。顔が赤いが」
    「べ…別にっ。なんでもないっっ」
    「そうか。なら良いけれど。
    もう時間だ。戻るぞ」
    「ああ」
    王后陛下に退出の挨拶をして、彼女はフェルゼンと回廊へ出た。
    「勤務中なのに、つきあわせてすまなかったな。オスカル」
    周囲に誰もいないことを確認して、フェルゼンが彼女に極上の笑顔を向けた。
    この瞬間のために、馬鹿な役回りも演じていられる。
    きゅんきゅん言いっぱなしの胸を押し殺して、彼女はアイスブルーの瞳でフェルゼンを見つめ返した。
    が。
    チラッと視界に入ったものに、一発で彼女はブチキレた。
    ちくしょ……。見なきゃ良かった!
    「貴様、少しは気を使ったらどうだ」
    怒りを含んだ声で彼女はそう言うと、後ずさるようにフェルゼンから離れる。
    そして何かを彼に投げつけるなり、踵を返して走り去った。
    「なんだ、あいつ」
    わけが判らずに呆然としながら、フェルゼンは手の中の、彼女に投げつけられた物に目を落とす。
    質のいい絹のハンカチと、宝石で飾られた小さな小さな鏡。
    何気なく顔を映すと、首筋にうっすら口紅の跡があった。
    「あ…」
    確かにこれは不注意だった。
    誰かに見られたら穏便では済まない。
    またオスカルに助けられてしまった。
    フェルゼンは彼女に感謝しながら、先ほどの怒気はらんだ美しい顔を思い出した。
    怒りだけではない、恥ずかしさも入り混じったようなあの表情。
    くちづけの跡を見ただけであんなに動揺して… オスカル、お子ちゃまなヤツめ。
    手の中で冷たく光る小さな鏡に彼女が映っている気がして、フェルゼンは笑ってしまった。
    「こんな物を持ち歩いているなんて、あいつも女の子なんだなぁ。
    このギャップ、ちょっとグッとくるかも」
    一方、フェルゼンにそんなふうに思われているとはちっとも知らないオスカル・フランソワはひとり煮詰まっていた。
    「ああ、もうっっ!
    ……飲みにでも行きたい…」


    幼なじみに初めて連れてきてもらった酒場はたくさんの人で賑わっていた。
    モンパルナス地区の歓楽街。
    最近人気急上昇中のエリアである。
    2000軒ほどの店がひしめくパレ・ロワイヤルには及ばないが、パレロよりずっと安価にこじゃれたムードを楽しめるとあって、若者の市民を中心に毎夜盛り上がっている。
    最初、彼女がここに来たいと言ったとき、アンドレ・グランディエはあまり良い返事をしなかった。
    確かにモンパルナス地区は今1番勢いがあって面白いスポットではある。
    しかし、そのぶんトラブルも多発する、若干治安の悪い地域でもあった。
    ここ2~3日の彼女の様子から察するに、何かに思い悩んでいて、それで飲みに出たがっているのは判るのだが、万一何かあってからでは遅い。
    悩み事が振り切れると自虐的な方向に走りがちな彼女を、あまり治安の良くないところには連れて行きたくないのが、彼の本音である。
    しかし、どうやら彼女が日常とすっぱり離れた気分で飲みたくて見知らぬ街に行きたがっているのだと判ると、彼もあまり反対できなくなった。
    彼女には背負っているものが多すぎる。
    ひとときの逃避ぐらい、いいじゃないか。
    彼は勤務を終えた彼女を屋敷に連れ帰ると、なるべく簡素な服に着替えさせた。
    いかにも貴族的ないでたちはトラブルを招くだけだ。
    シンプルなブラウスにキュロット。
    華美ではない、がっつりめなジレを着せて体の曲線をごまかし、でもクラバットだけはつけさせる。
    ちょっと貴族っぽくなってしまうが、滑らかな喉もとや細い首は隠しておいた方がいい。
    彼女が女だとバレたら、どうせろくなことにはならないのだから。
    心配性な彼の世話焼きに、いつもなら反発する彼女が、今日はおとなしく言うことを聞いている。
    気力が落ちているのかと気にかかったが、歓楽街に降り立って、にぎやかな街並みをぶらぶらしているうちに彼女の表情が明るくなってきたので、彼は安心した。
    以前、屋敷の使用人仲間と来たことのある店に彼女を連れて行く。
    なんだかんだ言って深窓の令嬢である彼女には、市民で活気づく庶民的な酒場が珍しいらしい。
    ワクワクを隠せない瞳であちこちを見回していた。
    こんなときの彼女は子供の頃と変わらなくて、彼はほっとする。
    階級が上がり、責任の重さが増していく彼女が、ときおり自分の知らない彼女に見えるときがあるから。
    でも、今、彼女は、両親も、血のつながった姉たちも、信頼する副官だって知らない安心しきった顔をして目の前に座っている。
    出される酒の質の悪さでさえ面白く感じるようで、いろいろな酒をオーダーしては味を確かめ、くすくす笑っている姿はきっと俺だけにしか見せない。
    そう思うと、彼の心は暖かくて優しいものでいっぱいになる。
    でも。
    ……何を思い悩んでいる?
    彼は聞いてみたかったが、わざととも思える高揚ぶりで機嫌よく飲んでいる彼女に、何も言えなかった。
    それに、聞かずともなんとなく想像はついていた。
    たぶんフェルゼンのことだろう。
    彼女はその片恋を実に上手に隠していたが、彼にだけはバレバレだった。
    理由は簡単だ。
    彼もまた、彼女に密かな恋心を抱えていたから。
    いやでも彼女の心の動きには敏感になっている。
    かなうことのない恋の痛みが、ときおり彼女から溢れるのを、彼は黙って見ているしかなかった。
    そんな想いをみじんも感じさせず、彼が香草で焼かれた熱々の魚介類の殻を彼女のために剥いていると、ふと視線を感じた。
    彼女がじっと見ている。
    先ほどまでのはしゃいだ気配はない。
    「どした?」
    「…何も聞かないんだな」
    「聞いて欲しいの?」
    彼が穏やかな声で聞き返すと、彼女は目をそらした。
    「今日だけ、言ってもいいか? 明日には忘れてしまうから」
    「…言えば?俺も明日は二日酔いで何も覚えていないと思うよ。
    今夜の出来事は全部、なかったことになる」
    全部、なかったことに…
    彼女は少しの間、言い出しかねていたが、やがて、ため息の混ざる小さな声で言った。
    「私はなぜ女に生まれてきたんだろう。誰のためにもならなかったのに。
    男でありさえすれば、すべてのことがあるべき形に収まったのに」
    誰にも揶揄されることなくジャルジェ家の嫡子となり、父を喜ばせ、母を安堵させ、仕事に邁進し、不毛な恋に落ちることもなかった。
    男でさえあれば、きっと『彼』と本物の親友になれた。
    後ろめたさもなく、王后陛下の前で笑いあえたはず。
    なぜ…私は……
    涙が浮かんで、彼女の目元にうっすらと赤味が差す。
    「泣いちゃえば?」
    彼がそう言うと、彼女はふるふると小さく首を振った。
    「オスカル。口、開けて」
    「え?」
    「いいから口開けて」
    わけが判らず彼女がくちびるを開くと、彼は剥いたばかりの香草焼きの貝を彼女の口に放りこんだ。
    「熱っつ…」
    それは尋常じゃなく熱かったが、吐き出すわけにもいかず、彼女は口元を押さえた。
    息が詰まり、顔が真っ赤になって、瞳から涙が落ちた。
    ひと粒落ちると、次々と雫が落ちていった。
    彼は黙って彼女を見ていた。
    抱きしめたい気持ちの代わりに、目線で彼女を包んで、泣きやむまで待っていた。
    「ひどい、アンドレ。
    すっごく熱かったぞ。舌をやけどした」
    まだ涙のたまった目で、彼女は彼をにらんだ。
    本気で怒っているわけではない、照れ隠しの拗ねた顔。
    声に明るさが戻っていた。
    無理してる。
    彼はそう思ったけれど、先ほどこぼれた涙とともに、彼女のつらさが少しでも減ったならそれでいい。
    「次、何、飲む?」
    「何がいいかな。どれをオーダーしても適度にマズいんで笑えてくるよ」
    「おまえ、普段いい酒ばっかり飲んでるから」
    「……アンドレ」
    「ん?」
    「ありがと」
    「何が?」
    「……別に」
    2人はなんとなく笑いあう。
    「たぶん明日が、今年最後の休日になるだろうな」
    「おそらくな」
    「じゃ、今日は2人だけの忘年会にしよう。
    好きなだけ飲んでいいよ。ちゃんと連れて帰ってやる」
    だから彼のことなんて忘れてしまえよ。
    「忘年会、か」
    忘れられたらいいのにな。
    本当に言いたいことは言えないまま、2人はゴブレットをあけ続けた。


    夜更けだというのにまだ人の引かない街並みを大通りまで歩いていた。
    夜気に冴えた月あかりが、彼女の金髪をいっそう淡く浮かび上がらせている。
    人波を縫ってゆらゆらと揺れる毛先を、彼は何よりも美しいと思いながら少し遅れてついていく。
    「オスカル、あんまり俺から離れるな」
    大通りの1本手前。
    このあたりはそんなに安全じゃない。
    「はぁーい」
    彼女はダンスのステップでくるりと振りかえると、酔っ払ったご機嫌さんな調子で良いお返事をした。
    そのままくるくるとステップを踏んでいく。
    それは彼女が今まで人前で見せたことのなかった、メヌエットの女性のステップだった。
    近衛への軍属が決まったとき、彼女は彼とダンスの猛練習をやらされた。
    「そんなちゃらちゃらしたこと、やってられるか」
    そう言って、かたくなにやろうとしなかったダンスだったが、皇太子妃をエスコートすることもあり得るのだからと父親に厳命されて本当に仕方なく練習したのだった。
    そのときも彼女は女性のステップは彼に踊らせ、自分では絶対にやろうとしなかった。
    そのステップを、彼女が優雅に踏んでいる。
    「おまえ、」
    フェルゼンと踊りたいのか?
    彼はそう言いかけたが、押し留めた。
    そんなことを聞いたって彼女を追いつめるだけだ。
    「何だ? アンドレ」
    「…おまえ、細かい路地には入りこむなよ」
    「判ってるさ」
    彼女はまた背を向けると、髪を揺らしながら先を歩いて行く。
    俺もいつかは他の誰かを愛して、おまえに何も感じなくなるんだろうか。
    ふとそんなことを思い、彼は立ち止まった。
    早くそんな日が来て欲しいような、そんなことは絶対ありえないような…
    馬鹿だ。
    何を考えているんだろう。
    少し飲み過ぎてしまったのかもしれない。
    「は…ぁ」
    深呼吸して気分を入れ替えた。
    吐く息が白く、顔を上げると彼女がずいぶん先へ行ってしまっている。
    このあたりは治安が悪いと言っているのに!
    彼は走って追いつくと、彼女の手首をつかんだ。
    「あんまり俺から離れるなって」
    急に後ろから引き戻されて、彼女は冷えた石畳に足を取られた。
    酔いも相まって軽くふらつき、頬が彼の胸に触れる。
    抱きとめられた形になってしまった彼女は、彼を振り仰いだ。
    目を合わせようとすると、首の角度が苦しいぐらい。
    この…感覚。
    急に胸がどきどきしてきた。
    一緒に育って、優駿の若駒のようにじゃれあい、兄弟そのものだと思ってきたのに。
    自分を余裕で抱きとめる体に、唐突に彼が男だと気がついた。
    当たり前のように、子供の頃のままの気持ちで彼を見てきたから、ちっとも今の彼のことが見えていなかった。
    チビだった彼が、自分よりもずっと背が高くなっていたことも、肩幅の広さも、胸の厚さも。
    不安定な自分の心をいつも支えてくれた包容力にも、今、気づいた。
    気づいてしまったら、胸のざわめきがおさまらない。
    なんで私がアンドレ相手にこんな気持ちに…
    なんだかやたらと混乱してきて、彼女は彼から目をそらすタイミングをなくす。
    動けずにいるのを彼が不審そうに見ているのに、言葉も出なかった。
    「オスカル?」
    彼が名前を呼ぶ声が、胸につけた耳に直接響く。
    おまえって、こんな声だったっけ?
    優しくしみこむ心地いい声だ。
    「大丈夫か? 酔ったのか?
    もう少し歩いたら辻馬車を拾えるんだけど、歩ける?」
    心配そうな声を聞いていたら、なぜか彼女はもっと彼を心配させたくなった。
    『今夜の出来事は全部、なかったことになる』
    本当に…?
    「オスカル、返事して。そんなにつらいのか?」
    それが本当なら。
    「歩け…ない…みたい、だ」
    そう言ってしまっていた。
    彼は驚いたような顔をしたけれど、次の瞬間、慈しむ瞳で笑った。
    「ごめん。俺が飲ませ過ぎたな」
    そう言うと、長身をかがめて彼女の膝をすくい、抱き上げた。
    「ちょっ… アンドレ。おいっ」
    「ああ、もう、オスカル。暴れるな。危ないだろ」
    彼は彼女を抱き上げたまま、事も無げに歩いて行く。
    ただでさえ人目を引く2人だから、すれ違う人たちが、皆、振りかえった。
    「おまえ、恥ずかしくないのか?」
    私はものすごく恥ずかしいのだけど。
    心の中を見透かされそうで、どんな顔をしたら良いのかわからないままの彼女が聞くと、彼は平然と言った。
    「なんで?」
    「なんで…って…… 私はこんなふうだし。
    はたから見たらゲイのカップルに見えるぞ、たぶん」
    「いいんじゃない?」
    彼の声はやっぱり微かに笑っている。
    「いいって… おまえ」
    「今夜の出来事は、明日になれば全部なかったことになる。
    だから俺も言ってもいいか?」
    「う…ん?」
    「自分のことを『こんなふう』なんて言うなよ。
    俺にはいつだっておまえは、女の子なんだから」
    彼女ははっとして顔を上げたが、黒い瞳が近すぎて、すぐにまた顔を伏せた。
    そうでなくても混乱気味な彼女は、彼の言葉でよりいっそう惑わされていく。
    「もうすぐノエルだろう?
    忠実な従僕へのプレゼントに、今日はこのまま抱かれていてくれないか?」
    優しい声に引きこまれて、彼女は、らしくもなくこくんと頷いた。
    でも、くちびるからは違う言葉がこぼれ落ちる。
    「おまえこそ、自分をそんなふうに言うな。
    おまえはいつだって私には、従僕なんかじゃない」
    ……だったら…何?
    でもそれを追求して何になるだろう。
    この夜は明日になれば消えてゆくのだから。


    凍てつく夜気にさらされ震える肩先。
    密着した部分の暖かさだけが、この夜の中で唯一、確かなもの。
    今の2人には、それ以上もそれ以下もなく、何かがいつもより少しずれているのを感じながら、そのままにぎわう人波の一部になった。


    FIN
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