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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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    「アラン!」
    士官学校の執務室。
    私室に戻るより先に一旦そこへ立ち寄ると、ユラン伍長が待ち構えていた。
    「夜明け前には戻ると思っていたが?」
    そう言われて、チラリと時計が目に入る。マントルピースの上に置かれた置き時計はもう昼に近い。
    人の枯れた早朝のベルサイユでは帰りの辻馬車が捕まらず、精一杯急いで戻ってきたつもりだけれど、結局こんな時間になってしまった。
    今まで丸1晩帰らなかったことはなく、自分の立場を考えれば、それはかなり軽卒な行動だった。
    「すみません。ご心配をおかけしました。でもユラン伍長、」
    俺は心持ち前のめりになる。今言ってしまおうか、それともやはりディアーナとの話し合いを優先すべきかと一瞬言葉を止めた。
    「あの、」
    「落ちついて聞け、アラン。ディアーナが」
    「あいつ、また何かやったんですか?」
    「馬車にはねられた」
    「はい?」
    馬車って。
    ディアーナが、なんだって馬車なんかに?
    「だっ… ユラン伍長、あいつがどうしてそんな。ディアーナには最上階(へや)から出るなっていつも言って。いや、それを聞かずにあいつは。でも」
    「落ちつけ」
    ユラン伍長の静かな佇まい。
    「本人はショックを受けていたが、命に別状はない。腹の子も無事だ」
    「な…んだ」
    俺は気が抜けて、応接用のソファにどさりと沈みこんだ。
    これじゃ今日話し合うのは無理かもしれない。ディアーナはただでさえ不安定な女だ。産み月も近いことだし、しばらくは優しく接してやらないと。
    「ご迷惑をおかけしました」
    あい向かいに腰をおろしたユラン伍長に頭を下げる。
    そして。
    「ご迷惑ついでに今日はもう、執務を退がりたいんですが」
    「うむ。あの娘の性質を考えれば、誰かそばに付いていてやった方が良かったんだろう」
    …良かったんだろう?
    「それ、どういう意味です?」
    ユラン伍長は、ことの顛末を簡潔に話し始めた。
    そして。

    不在中の間に起きた一連。それを聞いた俺は、結局この日、夕刻まで通常通りの執務についた。
    飾りものの1日を終え、名誉学長の執務室を出る。
    カツカツと廊下を進んで、ディアーナがいないと判っている私室の扉を開けた。
    日に1度入るルームメイドという名の見張り役の手で、生活感がないほど整えられた居間。
    そこを横切り、寝室へ。
    一応夫婦の寝室ということになっているその部屋は、実際はディアーナの個室だった。
    俺がろくに入ることもなかったそこは、学長の執務室と同様になかなか豪華な造りで、見劣りしない家具が設えてある。
    けれど室内は裳抜けのからだった。残されているのは、ディアーナをこの部屋に迎えたときに買い与えた数枚の服と生活用品だけ。ディアーナが自分でここに持ち込んだ僅かな荷物は、何一つ残っていなかった。
    ユラン伍長が言っていた通り、ディアーナは昨夜、荷物をひとまとめに抱えてこの部屋を出ていくところだったのだ。そして士官学校を出た道のはたで、見知った国民衛兵数人に見咎められた。
    見咎められたと言ったって、隊員たちは何気なく声をかけただけだろう。でも、俺との関係を解消するつもりだったディアーナは、問い詰められるのを恐れて大路へと逃げた。
    そこで出会い頭に馬車と接触し…

    がらんどうの寝室。
    俺はそこを出て、書斎に向かった。
    ディアーナに寝室を明け渡して以降、俺はもっぱらここで寝起きしていた。立派過ぎるソファが俺にはじゅうぶん寝台代わりになったからだ。

    馬車にはねられたディアーナは、すぐに医者へと運ばれた。このときに、町医者ではなく士官学校に連れ戻して、軍医に診せれば良かったのだとユラン伍長は苦い顔をしたが、そんなこと、後からならばいくらでも言える。そのときは皆、それが最善だと思って動いていた。そんなものだ。
    蹴り殺されそうになったディアーナは軽いショック状態だったけれど、幸い打ち身だけで済んだ。
    それでも身体中あちこちが痛んで身動きもままならなず、身重でもあることで「1晩ぐらいは」と医者に止めおかれた。
    隊員たちは安心して引き上げ、ことの次第が学校へと伝えられる。
    それは俺が薄汚い路地裏でフランソワと引ったくりを追っている頃で、その報告は結局、ユラン伍長のところまでしか届かなかった。

    「それにしても、なんだってディアーナは」
    書斎をぐるぐると歩きながら、俺は独りごちた。
    確かにうまくいっているとは言えない俺たちだったけれど、でも互いに割りきっている面もあったはずだ。少なくとも子が生まれ、心身ともに落ちつくまでは、ディアーナにとって俺は利用する価値がある。
    前夜に報告を受けていたユラン伍長は、出勤前に町医者に寄った。けれどディアーナには会えなかった。
    こっそりと病室を抜け出し、今度こそ本当に、ディアーナはいなくなったのだ。
    「なぜだ」
    こんな関係はよくないと、ようやく気づいた。きちんと話し合おうと思っていた矢先だった。だからって、ディアーナを追い出そうとか縁を切ろうとか、そんなふうには思っていなかったのに。

    身重な上にケガをした身体で、どこへ行ったのか。
    探しに行こうとした俺を、ユラン伍長は止めた。
    『自分の立場を考えろ。ジャルジェ邸の件があってから、おまえの行動には問題あり過ぎだ』
    『でも!』
    『ディアーナのことは、既に人を使って探させている。おまえが闇雲に探しまわるより、よっぽど効率的だ。それにディアーナの顔を知る隊員は多い。おまえが1人で走り回ったぐらいで見つかるような所にいるなら、いずれ必ず見つかる』
    理詰めで言われて執務室を飛び出すことも出来ず、俺はイライラしながら1日をこなした。
    窓を叩く風の音。
    真実ディアーナを心配しているのに、こんなときだっていうのに、頭を掠めたのはフランソワのマントが風にはためくさまだった。
    「はーっ」
    大きくひとつ、ため息をつく。
    それからいつものようにキャビネットを開け、酒瓶の並んだ隙間からオルゴールを手に取った。
    この中に忍ばせた金色の髪と漆黒の毛束だけが、いつのときも俺を癒してくれた。
    でも、そうだろうか。
    何かのときにディアーナが見せた柔らかな表情。
    ディアンヌに似ているからだけじゃない。ふわふわと夢見がちなところやおっとりしたしぐさに、ホッと気の緩むような瞬間もあったんじゃないだろうか。
    ただ、俺にはあの人の存在が大き過ぎて、その瞬間を少しも大切だと思わなかっただけで。
    「バカだ、俺は」
    ディアーナの存在は、確かに俺の生活を(あか)るくさせていた。男女のものではなくても、それは紛れもない安らぎの1つだったのに。
    女こどもの好みそうな、小さなオルゴール。
    普段通りにふたを開けてみる。
    けれどそこには、普段通りの毛束だけではなく、たたまれた紙片も入っていた。
    「手紙?」

    ごめんなさい

    そんな書き出しで、その手紙は始まっていた。
    書斎には入るなと常々厳しく言っていた俺に、勝手に入りこんだことを謝る言葉が並んでいる。

    あたしは学がないから、手紙の書き方がわかりません
    字はユランさんに少しずつ教えてもらっていました
    あなたの妻として、読み書きぐらいはできるようになりたかったから

    以前書斎に入っていたのは、勉強をしていてインクが足りなくなってしまい、ここならあるだろうと探していたのだという。
    手紙には、俺への感謝が下手な文章でくだくだと綴られ、最後にようやく、今回のことの理由らしきものが書かれていた。
    それは娼婦のカンだったのだと。
    俺をソファに押し倒して、強引な快楽を与えてきたディアーナ。
    いくら拒んでも、攻め入られてある程度のところまで仕上げられてしまったら、男なら(だ)したくなるのが当たり前。
    それを職業としていたディアーナには、快楽の真っ只中にある男の欲望の声が聴こえるらしい。俺なんかも、剣の手合わせなどで相手の手の内がぱぁっと読めることがあるけれど、ディアーナが言うのはそんなことなのかもしれない。
    あのときディアーナには、俺になんの感情もないのが判ったのだそうだ。
    イく間際の男。
    好きな女じゃなくても、そこまで奉仕されて仕立てあげられれば、それなりに可愛く思うもの。
    けれどあの時の俺にはなんの感情もなく、快楽すら感じておらず、刺激されて反応するモノは単なる男の生理的な反射でしかなかった。

    それがとてもかなしかったの

    愛してもいないが、嫌ってもいない。
    まったく男女の感情がないことを、仕方なく身につけてしまった娼婦の業で感じ取ったディアーナ。
    ゼロには何をどうしたところでゼロでしかないのに、腹の中で自分を棄てた男の子を育てながら、少しずつ俺を愛し始めていたのだと綴ってあった。
    そして、手紙はそこでブツリと終わっていた。

    …気がつかなかった。ディアーナの気持ち。
    だって2人の間にはギクシャクした溝が広がるばかりで、ディアーナだってあのチャラチャラした優男(やさおとこ)に惚れ抜いていたはずだろう?裏切られてナイフを持ち出すほどディアーナは
    …っ…て、ディアーナ?
    指をすり抜けて、手紙が床に落ちる。
    カサリと乾いた音がした。
    手紙が唐突に終わったわけ。
    ディアーナは、なんと終わりを括ったらいいのか判らなかったのだ。手紙の最後には、署名がいるから。

    俺は、ディアーナの名前も知らなかった。

    呼ばれていた源氏名のまま、漫然と呼び続けていたのだ。今の今まで。
    それすらの興味も、俺はあの娘に持たなかった。

    『ディアンヌ!』

    初めて会ったとき、そう聞き違えた。そのことになんとなく縁を感じたりしていた。カトリーヌに似た、ディアンヌによく似た面差しの、疲れた顔をした女。だから俺は。
    でもディアーナと呼び続けられて、あの娘はどう思っていたのだろう。あのふわりと柔らかな佇まいの裏で。


    あれから季節がひとつふたつ巡った。
    結局ディアーナの行方は判らず仕舞いで、俺の日常にも変化はなかった。
    突然消えたディアーナに、俺はなんだか腑抜けてしまって、あの話はまだユラン伍長に切り出していない。
    その代わり。
    「よっ!アラン!!」
    俺には元1班の連中との友情が戻ってきていた。
    ディアーナの捜索に、我がことのように尽力してくれた仲間たち。それが一気に俺たちの距離を埋めた。
    今は不審を買わない程度の要領の良さで、ちょいちょい俺に会いに来てくれる。たまには一緒に飲んだりもする。

    その日もヤツらと飲む約束をしていた。
    明るい居酒屋で、やましさのないおおっぴらな飲み会。あの男の息のかかった者に見られても、怪しく思われるものではない。
    それに世情の移ろいは激しく、あの男の立ち位置も、今や磐石ではなくなってきている。ど底辺に追いこんだ俺になんか、構っている余裕はないようだ。
    その夜の飲み会では、新入りの下働きが話題になっていた。
    国民衛兵の宿舎の掃除や厨房での雑用、たまにはお偉いさんたちの使いっぱしりや伝令もこなす。
    ここしばらく国民衛兵に多額の寄付を続けている元貴族の紹介だとかで、なかなか見どころのある少年だという。宿舎の隅で寝泊まりしながら、働いているそうだ。
    「俺んとこにはそんな人事、上がってないけどなぁ」
    士官学校の卒業生が大半を占める国民衛兵のさまざまな書類も、名誉学長の机の上を通っていくはずなのだ。
    俺がブツブツつぶやくと、まかないメシと小遣い銭程度で雇われる下働きごときで「いちいち書類が回るか」と笑われた。
    それもそうだよな。
    俺ももっともだと思い、その日は楽しく飲んで解散した。
    のだが。

    翌日、執務室に来客があった。
    国民衛兵からの使いだとかで、1階の受け付け係に伴われてやってきたその客の姿を見たときには、インク瓶をひっくり返しそうになった。
    …フランソワ!!
    久しぶりに見たあの人の子は、少し目線をおとして神妙な顔をしている。
    ああ、背が伸びた。それにちょっと見ない間に、ずいぶん大人っぽくなっている。
    一礼して退がる受け付け係が扉を閉め、俺はたっぷり1分待ってから、フランソワに駆けよった。
    「おまえどうしてここに!国民衛兵の使いって」
    「父さんがさ、僕のために素性を工作してくれたんだ。無理なくことを進めるために、ずいぶん時間がかかっちゃったけれど」
    「じゃあ、ここんとこ国民衛兵に多額の寄付をしている元貴族ってのはまさか」
    「その“まさか”みたいだね」
    …あいつか!あのいけ好かねぇ近衛連隊長。
    アンドレの頼みで、少佐がフランソワの出自を捏造し、寄付金を後ろ楯に国民衛兵の内部に入れた?
    「あとは僕の力量次第ってことらしいよ」
    軽い身のこなしで俺の執務机の角に座り、足を組む。
    ついでに腕まで組んでヘラリと笑った表情は、相変わらずクソ生意気だった。
    「母さんが近衛に入隊を許されたときも、父将軍のお膳立ての許と周囲の眼差しは侮ったものだったんでしょう?」
    「…らしいな」
    「あなたも母さんを否定していた」
    「…そうだな」
    「でも母さんは近衛を飛び出して、自分の力で周囲の見る目を変えた」
    「…そうだったな」
    「だから僕も。今はお膳立てしてもらった人の力に守られているけれど、いつかは」
    「チャンスをつかんで士官学校(ここ)に来る?」
    「当然だ」
    フランソワは大きく頷いた。
    そして、使いっぱしりとして預かったという薄っぺらい書類を渡してよこした。
    「今はこんなことしかさせてもらえないけれど」
    いずれ誰かの目に止まり、やがて大きな歴史の歯車の中に身を投じる日が来るかもしれない。かつて俺があの男の副官を務め、将軍にまで上り詰めたように。
    「だから“誰か”じゃだめなんだってば。アラン・ド・ソワソンさん」
    フランソワは机からぴょんと飛び降りると、俺の正面に立った。
    「母さんを知るあなたの元でなければ、意味がないんだよ。そろそろ本気を出してくれないかな」
    見上げてくる瞳の、挑戦的な光。胸にグッと迫る懐かしさを秘め。
    「フランソワ」
    それは俺にしてみれば、なかなか感動的な場面と言えた。
    が。
    「あ。そうだ、アランさん。僕、自己紹介しておくよ。父さんが言っておけってうるさいんだ」
    「自己紹介っておまえ、今さらか」
    フランソワは、フフンと鼻を鳴らしてニヤリと笑った。
    「僕の名前は、ヴィクトリア・フランソワーズだ」
    びくとりあふらんそわーず…?
    「って…え? えぇえーっっ!?だっておまえ、兄って言ったろ。兄だって」
    「“一応”って言ったはずだよ。それに、わけあって正式には名乗れない名だとも」
    「そっ… そんなのっっ」
    正式には名乗れないなんて、そんなのあの夏の亡命劇のせいだと思うじゃないか!!
    賊が出て子供が出現し、隊長が死んだり生きてたりバァさんが化け物だったり、さらに子供が追加され、兄だと言っていた片方も実は女の子だと聞かされて、俺の頭の中はもうグッチャグチャだった。
    だけど1つだけ判っていることがある。
    「おまえ今、国民衛兵の宿舎の隅で寝起きしてるんだろ?」
    「うん」
    フランソワはこっくりと頷いたけれど、俺は心底ゾッとした。
    あんな体力バカどもの中に、女の子を放り込むなんて!
    「父さんもそう言って大騒ぎしたんだけどねぇ」
    「当たり前だろうが!隊長はなんて言ってるんだ」
    「ああ、母さんなら別に」
    「別にぃ!?」
    「自分もイロイロあったけど、致命的な問題には至らなかったし、大丈夫だろうって」
    ああ、ダメだ。こっちの母子(おやこ)も自覚なく男の気持ちをかき乱す。
    この母子に関わると、男がどれほど我慢を強いられるのか、それをちっとも判っていない。
    ……アンドレ。おまえ、ちっとも気苦労が絶えないな。今ごろハゲ上がってるんじゃないか?

    脱力した俺にヒラヒラ手を振って、足どり軽く執務室を出て行くフランソワ。
    「いけない。腑抜けてる場合じゃねぇ」
    扉の閉まる重い音に、俺は気を取り直した。
    あんなとこにいつまでもフランソワを放置しておけるか!
    何から始める?
    どこから手をつける?
    久しぶりに、脳細胞の隅々にまで血が巡る。

    『あなたの元でなければ、意味がないんだよ』

    よぉし。待ってろ、フランソワ。
    そして。
    待っててください、隊長。

    あの夏から幾度となく、胸の内で語りかけてきた。それは野辺の送りの誓詞のごとく。
    けれど、この歳月をあの人は生きていてくれた。


    照らす陽の光を突き抜け、影落とす月あかりをくぐり、想いはすべてを超える。
    50にならせしあの方へと。

    待っていてください、俺を。
    どうか待っていてください。
    ……隊長。


    FIN
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