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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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【17】

UP◆ 2011/10/27

    「動かないなぁ」
    「ああ。見事に動かないな」
    突然始まった大渋滞に、2人は巻き込まれていた。
    目的地までは、もう少し。
    でも森の狭い道では追い越すこともできず、曲がりくねった先を見通すこともできない。
    まずいな。
    彼は懐中時計を確認して、若干の焦りを覚えた。
    せっかくの休日が渋滞などに侵蝕されるのはもったいない。
    アクシデントとしては些細なものだが、普段穏和な彼がちょっぴりいらついている。
    ところが、彼女の方はいたってごきげんなものだった。
    自分を知る者のいないこと。
    好奇の目と、その裏で叩かれる陰口からすっぱりと切り離されて、それがこんなに気持ちを晴れやかにさせるとは、彼女も思ってもみなかった。
    渋滞なんてちっとも気にならない。
    「落ちつけ、アンドレ。いくらなんでも、ジゼルとの待ち合わせには間に合うのだろう?」
    「それはもちろん」
    「なら焦る必要はない。それに」
    彼女は手にした扇を開くと、その陰から目元だけをのぞかせて言った。
    「私たちが多少遅れたとしても、ジゼルは来客好きだから、間違いなく歓待してくれるぞ?」
    「おまえ、会ったこともないくせに、よくそんな判ったようなこ…と」
    言い返しかけた彼は、言葉を止めた。
    ジゼルは間違いなく歓待してくれる…?
    それって。オスカル、それって!?
    不意打ちのその発言は、渋滞にうんざりした彼のテンションを、一気に上げるだけの威力があった。
    このお出かけでの未確定事項の1つ。
    そして彼にとって、ものすご~く気になっていることの1つ。
    それは言うまでもなく「お泊まり」。
    その鍵は、まだ見ぬジゼルが握っていた。
    『初対面で泊めてもらうなど無作法』と主張した彼女。
    それを『ジゼルが本当に歓待してくれるなら、ご親切に甘えてもよいのでは』という方向に、なんとか軌道修正した彼。
    そこには、長らくおりこうさんな番犬役を務めてきた男の切なる欲求がある。お泊まりの成立は、当然ご褒美の夏へと直結しているのだ。
    2人が恋仲になってから、そういう機会がなかったわけではない。
    誰もが寝静まった恋人の時間。
    彼女の部屋で過ごす2人は、心の距離だけでなく、具体的な距離も縮めてはいた。
    少しずつ男の手にも慣れてきた彼女に、彼の気分も昂まって。
    でも、彼がかなりその気になったところで、いつも待ったをかけられる。
    とまどいに翳る青い瞳と、やんわりした拒否の気配に。
    男としては非常につらいその状況。
    でも、もう無理強いしたくない彼は、突き上げる熱いものを何度となく押し殺してきて…
    頼む、オスカル。本っ当にもう寸止めは勘弁してくれ。
    このお出かけでまでそんなことをされたら、理性を保てる自信が彼にはない。
    途中で「やっぱりやだ」と言い出されたところで、力ずくでも本懐を遂げてしまう恐れがある。
    それでまたオスカルを泣かせてもなぁ。
    『ジゼルは私たちを間違いなく歓迎する』
    まるで暗号のような言いまわし。
    他人が聞けば気にも止めないだろうが、2人には重要なキーワードだった。
    これを2人流に訳せば『今夜…一晩を私たちは一緒に過ごす』ということ。
    彼のみに絞って訳せば『おねがい、アンドレ。抱いて』だ。
    間違っても『いい仕事してもらおうか』ではない。
    「おまえ、自分が言ってる意味、判ってる?」
    彼は慎重に聞き返した。
    もうぬか喜びはしたくない。
    「さぁな。言葉通りの意味だろう。なにか問題でも?」
    彼女は澄ましてそう答えたが、扇からのぞかせている瞳には、子供の頃のようないたずらな彩りがあった。
    迷っているうちはグダグダだったオスカル・フランソワだが、スイッチが入ってしまえば女は強い。
    本当はまだちょっと不安だし、気恥ずかしさもあるのだが、奇襲作戦の第1波を失敗した彼女、主導権奪還を果たすには、ここで流れを変えておかなければならない。
    守りに入るわけにはいかなかった。
    「どうした?アンドレ。返事が遅いぞ。
    『ジゼルは私たちを間違いなく歓迎する』
    気に入らないのか?」
    「あ‥の、オスカル、本当に?」
    彼女が掠れた声でやっと誘いかけた言葉を言質に取ってまで、オスカル・フランソワの追い落としを謀った彼。
    しかし、まさかこうも唐突にお許しが出るとは思っていなかった。
    男らしく答えたいところだが、嬉しさよりも疑わしさが先に立つ。『本当に?』という、および腰な言葉しか出てこない。
    けれど、彼のそのヘタレた様子は、むしろ彼女を喜ばせた。
    よしよし。アンドレめ、いい感じに動揺しているな。
    ならば、ここでもう一押ししておくか。
    彼女は情感のこもった目で隻眼を見つめる。
    その熱い眼差しに、彼は判りやすくどぎまぎしはじめた。
    ふふん。世間では私を天然ボケだの男女の機微に疎いだのと言っているようだが、なめてもらっちゃ困る。
    私だってやるときはやるのだ。
    「アンドレ」
    彼女はここぞとばかりに、たたみかけに入った。
    「ずいぶん長いこと待たせてしまってすまなかった。
    でも、今度こそ本気だから。その証拠に…」
    彼女は、恋人の注意をじゅうぶんに惹きつけたことをはっきりと感じた。
    よしよしよーし!
    この勝負、もらった!!
    …いったいなんの勝負をしているつもりなのか。
    オスカル・フランソワは彼の手を取ると、その手のひらを、ギリギリまで開いた胸元に強く押し当てた。
    「ほら、アンドレ」
    伝わる鼓動は激しくて、一見余裕に見える彼女も、実は緊張しているのが彼にも判る。
    そして、彼女がどれぐらい本気かも。
    「オスカ‥ル」
    この奇襲第2波を、彼はかわしきれなかった。
    まだジゼルに会う前からお泊まりのOKが出て、今夜は本気だと告げられた上、その手付けとでも言わんばかりに胸まで触らせてくる彼女。
    アンドレは完璧にやられていた。
    こんなに積極的なおまえ、初めてだ。
    もっとも、彼女にしてみれば触らせている気なんかこれっぽっちもない。
    ただ、自分の真剣さを伝えたかっただけ。
    でも彼はそういうわけにいかなかった。
    彼女に押さえつけられた手のひら。
    その指先は、少しだけドレスの胸元に入りこんでる。
    微妙に感じる柔らかな生地は、例の勝負下着なんだろうか?
    うう。見たい。激しく見たい。
    それに。
    あと2~3センチ深くまで差し入れたら、たぶん届く。
    まだ見たこともない…彼女の胸の‥‥先‥に。
    そう意識した瞬間、彼の脳みそは煩悩でぐちゃぐちゃになった。
    仕方ないだろ、男なんだから!
    心の中で、誰ともなく言い訳する。
    胸に押し当てられた手。
    じっとさせておくのがもどかしい。
    このまま滑りこませて、そのふくらみを揉みしだきたい欲求が高まってくる。
    ここまできてるんだから、オスカルだってイヤがらないはず。でも万一、今ここでおまえをドン引かせたら、今夜のお誘いはご破算になるか!?ああっ、もうっっ!!
    傍らで、狙った通りわちゃわちゃになっている愛する男に、彼女はからかい混じりで問いかけた。
    「どうしたのだ、アンドレ?」
    「なんでもないよっ」
    彼は乱暴に彼女の手を振りほどくと、そっぽを向いた。
    今、彼女と見つめあったら、胸の内の妄想を全部読まれてしまいそうだ。
    もうすでにすんごいことまで考えちゃってる彼、とてもじゃないけど、彼女の目は見られなかった。
    「ほぉ、なんでもない…か」
    久しぶりに優位に立てた彼女は、そうつぶやくと満足そうに言った。
    「まぁ、よい。今宵のミッション、コードネームを『ジゼル』と名付けよう」
    彼の中で渦巻く欲望がどれほど生々しいか、そんなこと何も知らない笑顔で。


    さて、突然の渋滞でわずかずつしか進まなかった馬車の列。
    周囲の御者や客人たちが殺気立つ頃になって、ようやく流れ始めた。
    湾曲していた道を抜けると、少し先の路肩に荷馬車が不自然に寄せられているのが見える。
    あれが渋滞の原因?
    近づいてくるにつれ、何かトラブルに見舞われているらしいのが判った。荷馬車のそばでかがみ込んでいる男性と、おろおろしている女性がいる。
    「寄せてくれ、アンドレ」
    どの馬車も迷惑そうによけて通っているのに、案の定、彼女は見過ごしておけなかった。
    馬車が止まると、ドレスの裾もかまわず飛び降りる。
    トラブルの原因は一目で判った。
    荷馬車のながえが折れている。
    これではどうしようもないだろう。
    「見事にポッキリ折れているな」
    「ええ。私たちだけでは路肩に寄せるだけで精一杯でした」
    答えたのは、荷馬車には似つかわしくない、小粋な身なりをした白髪混じりの男性。
    一緒にいる女性はまだ若く、どことはなしに顔立ちが男性と似ている。娘と父といったところか。
    「普段は訪れる人も少なな村ですが、今日ばかりはね。
    おかげですっかり渋滞を起こしてしまいました」
    男性はすまなそうに、まだ連なっている馬車の列に目を向け、そして彼女にも品よく頭を下げた。
    しかし彼女は男性の詫びよりも、言葉の方が気になった。
    今日ばかりとは、どういう意味だろう。
    「こんな日ですから、どなたさまもお急ぎのようで…
    正直困り果てておりまして。
    この積み荷だけは、早く届けなければいけないのですが」
    男性は、そう大きくはない3つの樽に目をやった。
    「すみません、あの‥『こんな日』とは?」
    彼も気になったようで、口をはさんでくる。
    「おや、ご存知ない?」
    男性は意外そうだった。
    「今日は年に1度の村祭りなのですよ。例年ならもっと早い時期にあるのですが、先だっての嵐で今日に延期になりましてね」
    「ほぉ。祭…か」
    彼女は興味を惹かれたようだった。
    「普段は村を出ている若者たちも帰ってきますし、娯楽の少ない山村ですから住人は皆、楽しみにしております。
    となり近所の村からも見物客が来て、村が1番賑わう日なのですよ」
    なるほど。
    2人はやっと合点がいった。
    静かなところだと聞いていたのに、村に近づくにつれて道が混みだしたので、おかしいと思っていたのだ。
    元庭師の手紙にあった「ちょっととりこんでいる」というのは、そうか、祭のことだったのか。
    「あなた方も、祭見物にいらしたのかとお見受けしましたが」
    「いいえ。庭師をしている知人がこちらに住んでいて、景色がとても美しいと聞いたものですから、休日を過ごしに。
    それよりも積み荷ですが、お急ぎなんでしょう?」
    「ええ。村祭りのお客さまにお楽しみいただくワインなのですよ」
    そうか。これは来客に振る舞うためのワインなのか。
    それは困ったことだろう。
    どうする?
    彼がオスカル・フランソワに目で聞くと、彼女は当然だと言わんばかりに頷いた。
    「いずれにせよ私たちも村へ行くのだ。
    積み荷が増えたところで、なんの問題もないだろう」
    やっぱりね。
    馬車を寄せたときから、彼女がなんらかのお節介をするだろうと予想がついていたアンドレは、こっそりと苦笑した。
    まったくおまえはお人好しなんだから。
    「では、その積み荷はこちらでお運びしましょう」
    彼は言い終わるが早いか、小ぶりな樽に手をかけた。
    「いえ、そんな!けっこうです、馬車が汚れてしまいますから!」
    見た目は地味だが、実はけっこう金のかかっていそうな馬車に、男性は恐縮した声をあげる。
    しかし、彼は手際よく荷を移し始めた。
    「気遣いは無用だ、ムッシュウ。どうせ客室は使っていなかったのだし。
    アンドレ、とっとと運んで出発だ。
    振る舞い酒が遅れるわけにはいかん」
    きれいな顔をして奇妙な言葉使いをする女に、老人は違和感を覚えたが、
    「アンドレ… 庭師の知人…?」
    小ぶりなものとはいえ、ワインの樽をひょいひょいと運ぶ黒髪の男を、まじまじと見た。
    「あなた方、もしやベルサイユからお見えとか?」
    「ああ、そうだが」


    積み荷がちょっぴり増えたお忍び用の馬車は、ようやく渋滞が解消された森の道をコトコトと進む。
    「あなた方がシモンの言っていたお友達だったとは!」
    白髪混じりの男性は、馬車の客室で、揺れる樽たちを押さえながら声を張った。
    「ベルサイユから、私どものシャトーをご覧になりたいというお友達がいらっしゃることは、伺っておりましたよ。
    シモンにはうちの庭の手入れをしてもらっているのでね」
    男性は、2人の申し出を、断ったわけではないのだと続けた。
    「なにしろ祭の支度もありましたし、娘が…」
    「ええ、判ります!」
    彼も車輪の音に負けじと声を張る。
    先ほど見かけた娘。
    「おめでたでいらっしゃるのだな。
    見たところ、もう産み月も近そうな」
    「ええ。来月です。
    今日も先ほど産婆の家に寄ったところでした」
    「残して来て大丈夫だったのでしょうか?」
    「荷馬車を放ってもおけませんし、かと言って私の代わりに1人で祭にやっても、かえって体に障りますから。
    村についたら人を向かわせますよ」
    男性の言うことに一応の安心をしながら、2人は意外な出会いに驚いていた。
    「まさかこんなところでシャトーの御主人に会えるとはね」
    「せっかくの上物のワインを出荷しないなどというのだから、よほど偏屈な御仁かと思っていたのだが、そうでもないのだな」
    しかも預かった積み荷のワインは、祭で振る舞われるという。
    彼は彼女にだけ聞こえるよう、さらに声を落として言った。
    「あのワイン、祭に行けば俺たちにも飲ませてもらえるかな」
    「どうだろう?できればそうありたいところだが。
    しかしあのワイン、祭の見物客に振る舞うには、とても足りないのではないか?」
    たいして大きくもない樽に3つ。
    確かに、来客全員に振る舞うには少ないような気がする。
    よほど小さな祭なのだろうか。
    「御主人!」
    彼女は御者台のうしろの小窓顔を寄せると、出し抜けに主に切り出した。
    グズグズと憶測しているより、少々不躾だが聞いてしまった方が早い。
    「この積み荷のワイン、祭に行けば、私たちにも飲ませていただけるのだろうか?
    御主人のシャトーで作られるワインは、大変な逸品と聞いているのだが」
    「私どものシャトーの噂をお聞きになられたのですね?」
    それまで慎み深い笑顔を浮かべていた主は、表情を曇らせた。
    「残念ながら私どものワインは、そのようにたいしたものではありませんよ。
    昔ながらのお得意さまにしか出荷していないので、噂に尾ひれがついているだけでございましょう」
    主は謙遜などではなく、本当に困惑しているような声音だ。
    なぜだろう。あんなに美味しいワインなのに。
    不思議に思った彼は、昔、シモンの持ちこんだワインを飲ませてもらったことを話してみた。
    「ほんの1杯飲んだだけでしたが忘れがたく、できれば彼女にも飲ませてやりたくて」
    「それでこの村にいらしたと?」
    「美しい湖とワイン。素晴らしい休日になると思ったんですよ。でもシモンには、ワインが手に入るかは俺たち次第だなんて言われてしまいました」
    「ああ、そういうことでしたか!」
    主は固くしていた表情をほどいた。
    「シモンから私どものワインを… そう。そうですか」
    1人で妙に納得している。
    「確かに、ワインが手に入るかは、あなた方次第ですな。
    シモンの妻のジゼルは、なかなかの美人ですから」
    「は?」
    急に変わった話の方向性。
    2人には疑問符しか浮かばない。
    ジゼルはなかなかの美人…って、そりゃ、シモンの手紙にもそう書いてあったけど。
    でも、それにしたってあまりにも唐突過ぎる。
    「御主人、それはどういう…?」
    問おうとした彼女に、彼が小さく囁いた。
    「オスカル、言葉使い!気をつけて。
    それに、ほら、もう村に着くよ。見てごらん」
    彼女が小窓から前方に目線を戻すと、馬車は緩くうねった坂を登りきったところだった。
    森が途切れて一気に視界が開ける。
    眼下に三日月形に広がる湖の碧が目に飛びこんできた。
    きらきらと光る湖面。
    対岸の湖畔に建つ童話のような館。
    舟遊びの小舟が色とりどりに浮いていて、花びらのようだ。
    少し奥まった村の入り口には、祭の小さな露店がたくさん並び、さらに奥に教会の尖塔が見える。
    まるで箱庭のように愛らしい風景。
    「う‥わぁ…」
    彼女が小さな感嘆の声をあげる。
    彼はその景色よりも、彼女を見ていた。
    あまり遠くまでは見えない彼の右目。
    はるか湖を臨むよりも、恋人の顔を見ていれば、すべての風景が見えるような気がして。


    「今からでは馬車を置く場所にも困りましょう」
    主はそう言うと、シャトーの厩舎を使うよう、勧めてくれた。
    周囲を見回せば、小さな村には似つかわしくないほど混み合ってきている。
    ありがたい申し出に、2人は主の言う通り、まずは村の入り口で主と積み荷を降ろした。
    「娘のことも、この樽も、あとは祭の若い衆がやってくれますので。あなた方は馬車を置いてきなさるといい」
    主は湖を指差した。
    三日月形の内側に、出島のごとく建つ愛らしい館。
    それこそが、主のシャトーらしい。
    急峻な山を背に、湖に浮かぶようにたたずんでいる。
    「馬車で行くには、湖畔をぐるりとまわるしかありません。ちょっと遠回りですがね。
    でも、歩くぶんには橋が使えるので案外近いのです」
    湖には中ほどに、まるでベルトをするように橋がかかっている。馬車などとても通れそうにない、小道の如き華奢な橋。
    「馬車を使うより、よほど早く村まで戻ることができますよ」
    橋で分断された湖は、村寄りの側は小舟がとりどりに散っているが、奥側は静かに凪いでいる。
    「皆、橋より奥にはいかないのだな」
    彼女が何気なくそう言うと、主はニコニコと笑った。
    「橋から向こうは、私どもの所有なのでね。
    舟遊びをなさりたかったら、館に引き込んである水路から湖に出られますから、うちの小舟をお使いなさい」
    小舟っ!?
    彼女はぱぁっと表情を明るくした。
    舟遊びなんて子供の頃以来だ。
    「ありがとう、御主人!」
    あきらかにワクワクしだした彼女に、アンドレは不穏なものを感じた。
    こいつ、絶対自分で漕ぎたいとか言い出す!
    自分がドレス姿なのを忘れているに違いない。
    「おまえ、」
    彼はやんわりたしなめようとした。
    が。
    「いやいや」
    逆に主に止められる。
    「いいんですよ。樽を運んでいただいたお礼です。
    娘は身重ですし、一時は本当にどうしようかと思いましたから。それに、ワインのイベントにもご参加くださるのでしょう?」
    「は?」
    再び急に変わった話の方向性。
    またしても、2人には疑問符しか浮かばなかった。
    なぜワインが関わると、こうも急に話が変わる?
    「御主人。イベント、とは?」
    彼が聞くと、主ははたと思いついたように付け加えた。
    「そういえば話の途中でしたな。
    実はこの3つの樽は、イベントの参加者への賞品でしてね。
    男性の優勝者に1つ。女性の優勝者に1つ。
    そして男女の優勝者を予想して、的中させた見物客に1杯ずつ振る舞われるんです。
    祭で1番盛り上がるイベントですよ。
    参加されるでしょう?」
    「ほ‥ぉ」
    予想、か。
    参加者への予備知識がないのはいささか不利だが、アンドレと私で別々にベットすれは、もしかしたら当たるかもしれんな。
    ふむふむと頷きながら、そう考えた彼女。
    なにもしなければ当然ワインは賞味できない。
    彼も同じように思ったのだろう。
    彼女の同意も取らずに、主に参加すると答えている。
    「ではイベントの責任者に伝えておきますよ。
    お名前は、アンドレと…?」
    「私はオスカ」
    「あーっと!彼女の名前は!!」
    彼は焦って話に割り込んだ。
    オスカル・フランソワという男名前も、ド・ジャルジェという派手な名字も、お忍びには目立ち過ぎる。
    「あのっ、名前はフ‥フランソワ…ーズ?
    おまえ、フランソワーズ、だよなっ!?」
    うわずった声で彼にそう言われ、ハッとした彼女も話を合わせる。
    そうだ!言葉使いも気をつけないと!!
    「えっ‥ええ。わたしのなまえはふらんそわーずですのよ」
    完全な棒読みだった。
    2人の間に漂うびみょー過ぎる空気。
    おまえ、もっとうまくやれよな。
    だって仕方ないじゃないか!
    目線だけで交わされる会話に、幸い主は気づかない。
    「アンドレとフランソワーズ、ですね。伝えておきます。
    ジゼルも祭にいるでしょうから、お2人の到着も伝えておきますよ」
    主の言葉に送られて、2人は馬車に乗りこむと、湖の外周をとろとろと走りはじめた。
    右手には長閑な村の風景。
    左手に湖を眺め、しばらく進む。
    三日月形という変わった形のせいなのか、片側が急峻な山に面しているせいなのか、湖は見る場所によって碧から翠、そして日陰では瑠璃へと色合いを変えた。
    「本当に美しい湖だな」
    「小舟に乗りたいと思ってるだろ?」
    「うんっ」
    『うん』っておまえ。
    彼女の表情はすっかり子供がえりしている。
    「だめか?」
    彼の腕に手を添えておねがいしてくる瞳は少年のようなのに、姿はリボンとレースで可憐に飾られていて、アンドレはそのミスマッチに直撃された。
    もういい。今日はなんでも言うことを聞いてやる。
    その代わり、オスカル。
    今夜は俺の言うことを全部聞いてもらうよ?
    「ん?なんだ?アンドレ、よく聞こえない」
    道が三日月の内周に入ると、農村の景色は切り立った山の斜面へと変わった。
    道も悪く幅も狭い。
    悪路に車輪の音が高くなっている。
    「俺も舟遊びが楽しみだって言ったの!」
    彼の答えに、彼女はさらに子供のようにはしゃいだ様子を見せた。
    こんなに屈託ない彼女を見るのはどれぐらいぶりだろう。
    連れて来てよかった。
    ささやかな幸福感が彼の胸に広がった。


    そのあと2人は、イベントが始まるまでの時間を、舟遊びや湖畔の散策などをして過ごした。
    彼女が14のときから、屋敷の外では主人とその従僕だった2人。
    その枷から意外とすんなり解き放たれ、恥ずかしげもなく恋人気分にどっぷりひたれたのは、彼女が女の姿をしてきたことが誘因と言えよう。
    そしてこの女装は、ある意味、大正解だった。
    なぜならば。
    これから始まるイベントに、2人は『予想する側』ではなく、出場者として登録されていたのだから。
    そしてそのイベントが、その年の湖の女神を決める、いわゆるミスコンだということを、2人はまだ知る由もなかった。
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