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【雨に濡れて、のち 1】 (2012 / 6月企画)
UP◆ 2012/6/66月。
今年はどうにも天候が変だ。やたら照りつけたかと思えば、気まぐれのように雨が降る。
日頃体力には自信がある俺も、朝起きたときからなんとなくだるかった。昨日の演習中降った雨に、濡れたままぼんやりしていたからだろうか。
「アラン?」
テーブルをはさんだ正面に、ラサールが座っていた。
混雑真っただ中の、朝メシ時の食堂。
「珍しいな、アランがボーっとしているなんて」
「まぁ、こう暑いとボーっともするだろうさ。朝っぱらからこの温度だぜ」
「う…ん。まぁ、暑いけど、そんな暑いか?」
「も、だめ。食欲もないぐらい。早くも夏バテかもな。俺のぶん、食っていいよ」
俺は食堂を出て、宿舎へ戻った。
がらんとした宿舎の自分の寝台に座る。
ボーっとしたままの頭に、自然と昨日の演習のことが思い出された。
昨日は朝から薄いもやのような霧雨が降っていた。
実戦を想定しての行軍の訓練だったので、俺達は皆、20kgほどあるリュックをかついで、班ごとに移動していた。
ムダに広いベルサイユの森は奥深く、かと言って危険ではないので訓練にはもってこいの環境だ。
私語はなるべく使わないことが前提なので、訓練は静かに進んでいく。
指示はすべて、隊長の出す徒手信号だった。
民間上がりの兵士が多い衛兵隊では、徒手信号なんか読める者は少ない。士官学校を出ている俺には苦もなく読めるが、1班の他の連中はまったく理解できていなかった。これはどこの班も同じようで、班長クラスでも理解できていない班もある。
基本、末端の兵士である俺達は、徒手信号なんか読めなくてもかまわない。しょせん捨て駒程度の扱いで、そこまで高度なことは求めらていないから。
俺がそう言うと、隊長は笑った。
「万一の有事を考えてみろ、アラン。一時的にせよ統制が乱れたとき、徒手信号を読める者と読めない者とでは生存の確率が変わるだろう?私は武官として、私の部下を1人たりとも死なせる気はない。身につけられるすべは全て身につけてもらう」
隊長は『私の部下』という言葉に力を込め…
それでこの演習だ。
私語は基本的に禁止だが、指導のためには許されているので、俺は1班のヤツらに隊長の出すコマンドの意味を説明して回る。
「よく判るな、アラン」
「当ったり前だ。これでも士官学校を出ている元将校だっつーの」
「そうだったな。あの事件がなきゃ、アランも今ごろ少しは出世していたかもなぁ」
「うるせぇな。今は訓練に集中しろ。隊長がおまえらのためにやっているんだから。ほら、次のコマンド出てるぞ。『間隔を広げよ』だ。手のひらの向きと動きに注意しろよ。『間隔をつめよ』と似ているからな」
朝から降っていた霧雨はだんだんとその粒を大きくして、小雨になってきていた。
俺達の軍服も、しっとりと湿り気を帯びてくる。
隊長の流れるような金髪も、雨を含んで艶を増す。
朝は暑かったのに、昼を過ぎてから雨足が強くなるにつれて、気温は急速に下がっていった。
雨が降っているというだけで、肩に背負ったリュックが余計に重く感じる。もしこれが本当の有事なら、かついでいるのはリュックではなくて負傷した仲間かもしれない。そう思うと20kgばかりの重さでグチも言っていられない。
「フランソワ、大丈夫か?」
貧血気味のフランソワが気にかかり、声をかけると、案の定そのソバカス顔は蒼白だった。
「おまえ、ちょっとそこに座ってろ」
「大丈夫…だよ、俺」
「いいから。俺、隊長んとこ行ってくるわ」
俺がフランソワとそんなやりとりをしていたら、隊長のから新たなコマンドが出た。
『全員その場で待機』
そして、よく響くアルトの声で「各班班長集合」の命令がかかった。
「よし。おまえ、ちょっとここで休んでろ」
俺はフランソワを木の根元に寄りかかるように座らせると、急ぎ隊長の元へ向かった。
「雨足が強くなってきている。今日はここまでにするので、宿舎に戻って班長を中心に徒手信号の復習をしておいてくれ。明日、晴れれば、引き続き徒手信号の読み取り行軍をしてもらう。以上、解散」
テキパキとそう言われて、各班の班長達は班員の元へ戻っていった。
実戦を踏まえて、木陰などに身を隠しての行軍だったので、俺たちは少し濡れた程度だったが、コマンドが各班からよく見えるようにと、吹きさらしのところにいた隊長は、遠目に見たよりずっと濡れていた。髪からしずくが落ち、青い軍服はじっとりと雨を吸って、紺に変わっている。頬にも雨粒が吹きつけ、あごの先からつたい落ちていた。
「どうした、アラン。戻ってよいのだぞ?」
「あ…、ああ。でも隊長があんまり濡れているので」
何か、拭くものを。
俺は確かまだ使っていないタオルがあったはずと、リュックを肩から降ろそうとした。けれど、それはあっさり隊長に制されてしまった。
「気遣いは要らない。早く班に戻ってやれ」
「でも」
そこにアンドレが来た。
他の班長が戻ったのに、俺がなかなか戻らないので様子を見に来たのだろう。
「何かあったのか、オスカル」
「いや、何も。この雨なので、今日の演習はこれで解散だ」
「そうか」
俺が見るともなく2人を見ていると、アンドレはごく当たり前のように、隊長の頬を両手で包んだ。
「おまえ、冷えきっているじゃないか。少しは自分自身のことも考えろ」
やおら軍服を脱いだアンドレは、それを隊長の頭からすっぽりとかぶせた。
「おまえは肩を冷やすとすぐに風邪をひくんだから。早く司令官室に戻って着替えとけ」
「アンドレ、いつまでも私を子供扱いするな。この程度の雨、濡れたうちには入らない」
「いいからたまには俺の言うことを素直に聞け」
アンドレにそう言われると、隊長は仕方がないというように笑い、ヤツの軍服をかぶったまま兵営へと歩きだした。
「まったくあいつには手がかかるよ。自分のことはお構いなしだからな」
アンドレはそう言うと、遠ざかっていく隊長の後ろ姿に目線を送る。
手がかかると言いながら、それがかわいくて仕方ないとでもいうような口振りだった。
俺の胸のすみを、チリチリとした何かが掠める。
せいぜいタオルを貸すぐらいのことしか俺にはできないのに、それすら要らないと言われてしまうのに、アンドレは一言も発することなく隊長の頬を包み、隊長も、拒むでもなく触れさせていた。
そんなの、幼なじみだとかいう2人にとって、さほど珍しいことでもないのだろうが。
「戻らないのか、アラン」
アンドレの声に、俺は我に返る。
「ああ、そうだな。あの…先に行ってくれるか。フランソワが貧血気味なんだ。衛生室に連れて行ってもらえると助かる」
「判った。おまえも体を冷やさないようにしろよ」
アンドレは、小走りに1班の待つところへ向かって行った。
1人残った俺は何をするでもなく、雨の中、ぼんやりしていた。
アンドレがためらいもなく隊長の頬を包み、少し首を傾げるようなしぐさでそれを受け入れていた隊長。
同じことを他の男がやったら、触れる前にはねつけられるだろう。もちろん俺だって。
『俺の言うことを聞け』
そう言われたときの隊長の顔。ほんの一瞬だけ甘やかな表情を浮かべた。
「どうしようもねぇよな」
口に出して言ってみる。
本当にどうしようもない。
体の芯まで濡れたらすっきりするような気がして、俺はいつまでも雨の中、突っ立っていた。
2につづく
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