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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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    一見、何事もなかったように日々は過ぎていた。
    あの舞踏会で、あなたとあの男に何があったのか私は知らない。
    知りたくて行ったはずの舞踏会で、私は見事に返り討ちに会い、知ろうとする気持ちが毒であると悟った。
    ただ、あの日を境に、あなたはきっぱりと私に弱さを見せなくなった。
    その瞳の奧には相変わらず揺らぎがあるのに、あなたはもうそれを私に預けようとはしない。
    そして、もともとが職務に傾倒する傾向にあったあなたは、ますます仕事にのめり込んでいったのだった。
    寝食を惜しんで黒い騎士を追う。
    まるで自分をわざと追いつめるようなあなたの行動。
    私が止めることなど、まったく無駄だった。
    そんな日々がずいぶんと続いたある日。
    夕暮れの執務室であなたが私を見つめた。
    逆光を背に受け、赤銅色にうねる髪。
    あなたの片恋に気づいたあの日も、夕陽が美しかったことを思いだした。
    あれから何年経つだろう。
    「ヴィクトール。私は近衛を… 辞すつもりでいる」
    「なん… それは… どういう…」
    私は言葉が継げなかった。
    あなたの言わんとすることが理解できなかった。
    あなたが近衛を辞める?
    退官するということか?
    生粋の軍人であるあなたが?
    まさか結婚?
    頭の中が疑問符だけで溢れかえる。
    「明日、王后陛下に申し上げるつもりだ。まだ父にも話していない。
    1番はじめに、おまえに言いたかった」
    「それは… なぜです?」
    「おまえはばかではない。もう察しているのだろう?」
    あなたが取り逃がしたと言い張っている黒い騎士との邂逅。
    それがあなたを変えようとしている。
    そのことはうすうす感じていた。
    感受性の強すぎるあなたは、黒い騎士が放った言葉に真っ向から傷を負ったのだろう。
    そしてあなたはその傷から逃げようとしない。
    みずから傷を開き、何度も何度もその痛みを確認する。
    いつだってあなたは壊れる寸前だ。
    だからいつでも私がそばにいて差し上げたかったのに。
    「そんな顔をしないでくれ」
    「どんな顔をするなと!?」
    私は思わずあなたの両肩をきつくつかんでいた。
    「なぜです?」
    あなたは私から目線を外し、答えることを拒んだ。
    「黒い騎士のことだけではないでしょう。
    …フォン・フェルゼン、ですね?」
    私があの男の名をあからさまに口にするのは初めてだった。
    あなたの動揺が手のひらから伝わってくる。
    「何があったのです?」
    「……何も」
    話そうとしないあなたに、肩へと置いた指先に力が入る。
    「痛っ… 離してくれ、ヴィクトール」
    「いやです。お話してくださるまでは」
    「本当に話すほどのことは何も…… あっ… や…」
    私はあなたを抱きしめていた。
    いつも、そっと触れるか触れないかの柔らかさで抱いていたあなたを、初めてしっかりと抱き寄せた。
    「だめ…だ。ヴィクトール。誰かが扉を開けたら。もし、人目についたら!」
    「かまいません」
    「何を馬鹿な。…頼むから …離してくれ」
    あなたはわずかに震えていた。
    なぜ?
    私は少し腕を弛め、身をかがめてあなたの顔をのぞき込んだ。
    「ヴィクト…ル。…いや、だ」
    その瞳は、はっきりと怯えていた。
    まるで猟犬に追いつめられたうさぎのように。
    なぜ、あなたがそんな目で私を見るのか。
    私たちが寄りそい合うことなど、今まで何度でもあったというのに。
    しかし。
    私はいくらもしないうちに気がついた。
    あなたが怖がっているのは私ではない。
    私の向こうに見えるもの。
    何か…「私」ではなく「男」に怯えているような。
    まさか、あの男があなたに無体な振る舞いを?
    王后陛下だけを愛しているはずのあの男が?
    私はあなたを落ちつかせるために、両手であなたの頬を包んだ。
    「彼があなたに何を?」
    「彼、ではない」
    え…?
    「彼とは終わった。すべて。恋も…友情も、何もかもが」
    あなたの頬を涙が伝い落ちたけれど、私はそれどころではなかった。
    『彼ではない』とはどういう意味なのか。
    フォン・フェルゼン。
    あの男でなければ、他に誰があなたに男の怖さを教えたと?
    私は頭がおかしくなりそうだった。
    コンティ太公妃の舞踏会であの男を見つめるあなたの眼差しに、私はまごうことなき嫉妬を覚えた。その嫉妬はどす黒く、私は自分の感情に飲みこまれそうだった。
    だから私はここしばらく、あえてあなたから距離を置いていたのだ。そうでなければ、あなたを縛りつけてしまいそうだったから。
    何よりもあなたが嫌うことを。
    けれど。
    私が目を離した少しの間に、あなたに何があったというのか。
    「ヴィクトール。彼は私に『すまなかった』と。私の気持ちに気づかなかったことを罪だと詫びていた。ひた隠しにしてきたのだから、気づかなくて当然だというのにな」
    あなたは頬に涙の筋を引きながら、微かに笑った。
    「私には謝られる資格などない。おまえにこんな役割を押しつけてきたのだから」
    「私が望んだことです」
    「もしそうだったとしても、私にはもう…」
    そう言いながらあなたは、頬を包む私の手をそっと押し戻した。
    「彼とは終わったから、身代わりである私はもう、用済みだとおっしゃりたいのですか?」
    「違う!」
    あなたは激しく首を振って否定すると、顔を伏せた。
    「おまえは私にとって特別な存在ではあった。それだけは本当に!」
    私は手のひらで包むようにあなたの頭を胸に引き寄せた。
    「判って、いますよ」
    「おまえがいてくれたから、やってこれた。仕事も… 彼への思いも」
    それならばなぜ今、私から離れて行くと言うのか。
    「私は今まで通りでかまわないのですよ?この、秘密の関係のままで。それ以上を無理強いはしません」
    涙で軍服の胸が熱く湿っていく。
    あなたは私の胸に顔をうずめたまま、ひどく泣いていた。
    こんなに取り乱すあなたを見るのは初めてだった。
    私はあなたを慰めたくて、いつもしていたように髪に優しくくちづけた。
    今までなら、そうすればあなたは乱れた心を私に傾け、その体温を寄り添わせてくるはずだった。
    それなのに、私のくちびるが触れた瞬間、あなたは身をすくませた。
    私を警戒するようなその仕草に、私は自分で思う以上に傷ついた。秘密の恋を共有してきたこの数年間が、全て否定されたような気がして。
    「…知りたくなかったのに」
    あなたが呆然とつぶやいた。
    「?」
    「誰よりも判りあえていると…思って。私だけが…」
    「何をおっしゃっているのです?」
    「…私もまた…罪を重ねていた……」
    あなたは私の言うことなど、耳に入っていないようだった。
    「私の方がよほど罪深い。…私はたぶん気づいていた。わざと気がつかないようにしていたんだ。そこが限りなく暖かかく、常にそばにあったから」
    ……アンドレ・グランディエか!!
    あなたの苦しさの混ざる譫言のようなつぶやきに、ひとりの男が私の脳裏に割り込んだ。
    良くしつけられた軍用犬のような男。
    用のないときは気配さえ感じさせずに服従しているが、ひとたび事が起きれば身を挺しても命令を実行する。
    あの従順な男が!
    あなたにとって彼は、その存在が空気のごとき自然さだったのだろうが、私には彼の気持ちなどとっくに知れたことだった。
    従僕が令嬢に憧れる。
    よくある構図ではないか。
    しかし、あなたは平民になど手の届くはずもない高貴な存在だ。
    常識で考えれば、そこには越えられぬ壁がある。
    公侯爵家ほどには及ばぬとはいえ、あなたは王室に近い近衛将軍家の伯爵令嬢。
    強く望まれれば王族に嫁がれてもおかしくはない姫君でいらっしゃる。
    そのあなたに、従僕ごときが何をしたと?
    身分だけなら引けを取らない私ですら、あなたには容易に手出しせず、大切に慈しんできたというのに。
    「ヴィクトール。私はひとりにならなければ。
    ……自分の足で歩けるように…
    護られていたことにも気づかない飾り人形のままではいたくないんだ」
    あなたは涙の残る声でそう言った。
    それが黒い騎士があなたに突きつけた傷なのか。
    「お父上の翼の下から出られると?」
    「そうだ」
    「それがどういうことか、お判りですか?」
    あなたは肩を大きく震わせると、顔を上げて私を仰ぎ見た。
    「…今は …判る」
    「そう、ですか」
    今までもあなたは女性ということで軽んじられ、数限りなく不快な思いをしてきた。それでも、本当にあなたに危害を加える者がいなかったのは、ここが近衛だったからに他ならない。
    あなたが望むと望まざると、近衛というフィールドにおられる以上、あなたはお父上の庇護下にいらした。
    けれど。
    ひとたび近衛を離れれば、目立ちすぎるあなたは格好の的になる。武官としても、女性としても、あなたの尊厳を傷つけようとする者は腐るほどいるのだ。
    涼しい顔で泥試合を演じる。
    鮮やかに笑う鬼が千匹も二千匹も住むのが、ここ、ベルサイユなのだから。
    それでもあなたは『判っている』と言うのか。
    まったく、黒い騎士もアンドレ・グランディエも余計なことをしてくれたものだ!
    湧きあがる腹立たしさは抑えがたく、ともすればその感情はあなたへと向かいそうになる。
    だいたいあなたにはすきがありすぎるのだ。
    軍務を取る司令官としてのあなたは見事なまでの有能さなのに、ときおりちらちらと見え隠れする素のあなたはあまりにも無防備だ。
    男に媚びることなどほんの少しも知らないあなたの言動が、ゴテゴテと飾り立てた貴婦人を見慣れた男たちの目に、どれほど清涼に映るか。
    体の線を誇張するローブ、ギリギリまで開けられたデコルテに飽き飽きしている男にとって、軍服の下に隠された肢体を想像することがどれほど当たり前で、どれほどそそられるか、あなたは何も判っていない。
    そうだ。
    「判っている」と言いながら、結局あなたは何もお判りではない!
    涙に濡れてなお美しいあなたの頬。
    引き結ばれたくちびるに、あの従僕は触れたというのか。
    ただその存在だけであなたを惹きつけるあの北欧の貴公子と、何をどうしたのかは知らないがあなたに某かの無礼をしかけたあの従僕と、そのどちらもが私には羨ましい。
    ああ、そうだとも。
    私は2人を今、妬ましく思っている。
    羨望されることこそあれ、人を羨んだことなど1度たりともないこの私が!!
    あなたを魅了することもできず、あなたへ想いのたけをぶつけることもできず、所詮この恋は形代で終わるというのか。
    おそらくあの従僕は保身の念などひとつもなく、ただ情熱のままにあなたに触れたのだろう。
    それは常に貴族として動く私にはできぬこと。
    腹立たしさは巡り巡って私自身へと向かう。
    手元で慈しむことはできても、結局はあなたの心には近づけなかった自分に。
    たかだか平民ごときを妬む自分に。
    そしてあなたは、私にもこうした醜い感情があることもご存知ないのだろう。
    それも致し方ない。
    従僕ふぜいに心を乱されるなど、私自身も思わなかったことなのだから。
    混ざり合う感情が暴走し、私の中で乱反射する。
    「ヴィクトール。苦…し…」
    きつく抱きしめた腕の中で、あなたのあげる掠れた声。
    あの従僕もこんな声を聞いたのだろうか。
    それとも、もっと艶やかな声を…?
    そう思った瞬間、私は無意識にあなたを来客用のソファに突きとばしていた。
    姿勢を崩し、私を見上げる青い瞳。
    どこまでも愛しくて……憎らしい… 女 (ひと)
    「お好きになさるといい。あなたは自由です」
    私はあなたに背を向けると扉へ向かう。
    執務室を出る前に、ただ1度だけふり返った。
    「あなたは私のものではない。あなたが私のものだったことなど、 終 (つい)ぞございませんでしたね」
    何か言おうとするあなたをそのままに、私は扉を閉めた。


    FIN
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