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【序章】
UP◆ 2010/12/30彼が司令官室の扉を後ろ手に閉めると、彼女は緊張が抜けて軽くめまいを起こした。
執務用の大きな机に手をついて浮遊感をやり過ごす。
落ちつけ。大丈夫。いつものめまいだ。
目を閉じて、彼女は自分の中で繰り返す。
大丈夫… 大丈夫…
彼女のその様子を、彼は黙って見ている。
本当は以前のように肩を抱いて支えてやりたいのだけれど、今はそれはできなかった。
かつてつい魔が差して、彼女に身勝手な激情をぶつけてしまったことは、お互いの中で無かったことになっている。
しかし、それよりも今、彼と彼女の間にあるうっすらとしたフィルターは別のことが原因だった。
「オスカル、」
大丈夫か?
そう言いかけた彼を、彼女はさりげなくさえぎった。
「最近は特に仕事がハードな上にこの暑さだ。少し夏バテ気味かな」
疲れを隠せない笑顔で言う。
確かに今年の夏は特別暑い。
もう夕方だというのに気温は依然高く、空気は重くまとわりついている。例年であれば、夏とはいっても湿度は低いため、それなりに過ごしやすいのだが、今年は違った。
「は…」
喉もとまできっちりと軍服を着こんだ彼女は、調子を整えるように息を吐いた。
夏バテなんかじゃない。
彼は判っていたが、何も言えなかった。
気遣われることを彼女は極端に嫌う。
気遣いを受け入れることで、自分が一気に弱くなってしまうことを恐れているように。
それが判っているから、彼には彼女を気遣うこともできなかった。誰よりも優しく大切に接してあげたいのに、今やその役目はあの男に変わりつつある。
子供の頃から彼女とともにあり、彼女を護り支えることこそが自分の人生だと彼は思ってきた。叶うことのない恋に絶望しかけたこともあるし、深くなりすぎた想いが憎しみに変わりそうになったこともある。
それでも彼は、彼女から離れられない。
つのる想いは長い年月をかけて少しずつ研ぎ澄まされてゆき、徐々に見返りも求めぬ、ただ彼女への愛だけになっていった。
それなのに。
彼女が近衛連隊長時代に副官を務めたあの男。
いかにも大貴族といった空気を隠しもせず、軍務ですら遊びのように優雅にこなしてゆくあの男が、その優雅さのままに彼女の手にくちづけ、彼女を「マドモワゼル」と呼んだ。
そのことは、今も彼と彼女に大きな衝撃を与え続けている。
2人の間に目に見えないベールが降り、どうにももどかしい会話しかできなくなってしまった。
お互いに言いたいことがあるはずなのに、それが何なのかうまく言葉が見つからない。くだらない話で妙にはしゃいだり、逆に、厳しくなりゆく情勢を熱く議論しあったり…
話したいのに、話したくない。
一緒にいたいけれど、一緒にいられない。
だんだんと身動きができなくなってゆく檻の中で、2人の気持ちはニアミスを繰り返す。
長いつきあいの中で、こんなことは今までになかった。
2人がそんな日々を過ごすのを尻目に、彼女の父である将軍・レニエにも覚えのめでたいその男は、少しずつ2人の日常を侵食していった。
婚約者同然の扱いで、毎日のように晩餐の席にいる。
きわめて機嫌の良いレニエ。
今は彼女のあとを引き継ぎ、近衛連隊長を務める貴公子の派手やかな押し出しに、侍女たちも浮き足立っている。
屋敷中、大歓迎ムードの中、彼女の苛立ちと疲労だけが増していった。
高位の貴族社会において当主の権力は絶大で、レニエが本気で彼女に結婚を命じれば、いくら次期当主の彼女でも逆らうことはできない。圧倒的不利な立場の中で、彼女にできるのは「Oui」と言わないことだけ。
ただでさえ衛兵隊での勤務は気が抜けないのに、屋敷に帰っても緊張を強いられる。
今の彼女がほっとできるのは、いまや司令官室だけだった。
調子が落ちついたのか、彼女は机に向かい、書類に目を通し始めた。
その横顔には、少し痩せた感がある。
あの男が屋敷に出入りしはじめてから、彼女の食欲は極端に落ちていた。
それはそうだろう。
疲れを癒やし、くつろいだ気分で食事を楽しむべき場所で、父親と求婚者が生まれてくる男子の話に花を咲かせているのだ。
いったい誰と誰が子供を作るというのか。
「一刻も早く、ジャルジェ家のために強く賢い男子を産むように。よいな?」
初めてその台詞を聞いたとき、彼女はそれが自分の体に起きることだとは思えなかった。
生まれてこのかた、父親に女であることを望まれたことは1度もない。小さな頃から否応なく剣を持たされ、ぶっ飛ばされながら育ってきたのだ。
それを今さら子供を産めと?
女性にとって、もっとも女性たる行為をしろと?
そんな話を聞きながら、美味しく食事などできるわけがない。
それどころか、このところの彼女は酒も飲んでいないし、彼のショコラさえ欲しがっていなかった。
よく眠れてもいないようだし、他の人間の目は上手くごまかせても、彼には彼女が体力を落としているのがよく判る。
勤務は完璧にこなしていたが、人目のないところでは立ちくらみやめまいを起こすことが増えていた。
彼女の不調に気づいているのは彼と、異常に観察力の鋭いアランだけ。
幸い今日は残業もない。
今のところ、もめごとも起きていない。
少し早いが連れて帰ろうか。
彼が帰宅を勧めようとしたときだった。
静かな部屋にノックの音が響く。
反射的に顔を見合わせた2人には、来訪者が誰か直感的に判った。
「入れ」
その言葉とともに扉を開けて顔を見せたのは、やはりあの男。
ジェローデル少佐だった。
「おまえ…」
彼女はうんざりしたような、しかし、もはや笑うしかなくなったような、微妙な顔をした。
「しょっちゅうここへ来たり屋敷へ来たり、おまえ、よく飽きないな」
不愉快さをにじませたその声に、まるで臆することなくジェローデルは微笑む。貴婦人たちをきゃあきゃあ言わせる、彼特有のもの憂げな微笑で。
「そうおっしゃらずに。ただ、あなたの美しいお顔が見たかっただけですよ、オスカル嬢。今日はお屋敷にうかがいませんのでね」
「おまえ、今日は来ないのか?」
彼女の声のトーンがわずかに上がった。
「私は今日は残業もなく、まっすぐ屋敷に帰るが」
「私がお伺いしないのが淋しいのですか?」
やけに余裕の表情でくすりと笑うジェローデル。
「ばっ… 何をふざけたことを。私が淋しいなどと」
ジェローデルとしゃべっていると、どうも彼女は調子を狂わされる。
「おまえが四六時中屋敷に来るから、今日も来るかと思っただけだ。私だって休みたい。こうも足繁く通われて、正直、私も疲れているんだ」
彼女はペースを崩されたくなくて、なるべく平坦に言った。
本当は「いいかげんに求婚を取り下げて、私のまわりをウロウロするんじゃない」と言ってやりたいのだが、今日はジェローデルの来訪がないと知り、早く屋敷に帰りたくなってしまった。
これ以上、ここで話を長引かせても時間の無駄だ。
それが顔に出たのだろうか。
「これでもう今日は退散しますよ。本当にただ、お会いしたかっただけなので」
そう言うと、いつになくおとなしくジェローデルは帰っていった。彼女の手に、くちづけするのは忘れずに。
「今日はやけにあっさりで、なんだか拍子抜けだな。オスカル」
彼女もそう思った。
「いいじゃないか。屋敷に来ないと判っているなら、こんなに気楽なことはない。久しぶりに気兼ねなく帰れるぞ」
心底ほっとした顔で彼女が言うので、彼は、この降って湧いた結婚話がどれほど彼女を追い詰めているのかと、そして自分自身も追い詰められた気持ちでいるのかを実感した。
今日は残業もなく、ジェローデルも来ない。
驚くほど気分が軽くなり、帰りの馬車の中、2人は久しぶりにわだかまりなく話すことができた。
このときのたわいもない会話。
何を話したのか覚えていないことを、オスカル・フランソワは哀しく、懐かしく思う。
このときに戻れたらと。
馬車がジャルジェ家に着くまでの通い慣れた道のり。傍らにいる彼。
14で軍籍を置いてから、ずっと繰り返されてきた日常。
これからも変わらずに続いていくのだと思っていた。
しかしそれは、この日、馬車が屋敷に着いた瞬間に終わるのだ。
「手紙-1」につづく
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