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こちらはメインコンテンツの【令嬢の回顧録】です。
開設の2010/12より概ね2013/10までにUPしたノベルを置いています。


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【エマの独り言】

UP◆ 2011/12/1

    「たいしたお仕度ねぇ」
    「お金持ちの商家のお嬢さんとは聞いてたけど」
    侍女たちのひそひそ声が聞こえてくる。
    迎えの馬車とばあやの身なり、そして私服に戻ったわたしの姿を見て、侍女たちは少し驚いたようだった。
    「このたびはたいそうお世話になりまして――」
    ばあやが恭しくありきたりな礼の口上を述べている間、わたしは半年間、行儀見習いの侍女として暮らしたジャルジェ家を眺めまわしていた。
    もう、来ることのない場所。
    「どぉもお世話になりましたぁ」
    見送りに出てくれた侍女たちに、わたしが愛嬌たっぷりに挨拶すると、ばあやがぎょっとしたような顔をする。
    まったくもう!
    わたしがすぅっと目を細めると、ばあやは慌てて作り笑いを取り戻した。
    「エマちゃん、ご苦労さまだったわね」
    レニエさま付きの侍女頭が私にねぎらいの言葉をかけると、他の侍女たちも次々に別れの言葉を口にした。
    寂しくなるとか、会えて良かったとか。
    ばあやの口上以上に、ありきたりな台詞。
    本当にそんなふうに思っていないのが、よく判る。
    わたしは最後にもう1度、居並ぶ侍女たちの顔を眺め…
    オスカルさま付きのジュリさんが、そこにいるわけもない。
    「さ、お嬢さま、参りましょう」
    ばあやにうながされたわたしが乗り込むと、馬車はすぐに走り出した。
    「お疲れさまでございました。エマさま、でしたっけ?」
    ばあやがニヤニヤ笑っている。
    「先ほどのお嬢さまのご様子!驚きましたわよ」
    ジャルジェ家に入りこむにあたり“エマ”という名前を考えたのはばあやだ。
    『なんでもいい』と言ったわたしに、目立ち過ぎず呼びやすいからとこの名前を勧めた。
    そう呼ばれていたこの半年は特になんとも思わなかったけれど、もう呼ばれないとなると、なんとなく寂しいような気もする。
    「ジャルジェ家はいかがでございましたか?」
    「とても立派なお屋敷だったわ。趣味が高くて、調度品なんかもさり気なくお金がかかっていて。今まで遊びに行ったどの貴族のお屋敷よりも、断然素晴らしかった。
    当然よね、王妃さまの覚えもめでたい近衛伯爵家なんですもの」
    「使用人も多いのでしょうね」
    「そうね。わたしもたぶん、全員とは会っていないわね。お端下まで入れれば、けっこうな人数になるんじゃないかしら」
    「それで、お嬢さまがご執心だったオスカル・フランソワというひとは、どんなお方でしたの?お近づきになれたのでしょう?」
    オスカルさま…
    まだお屋敷を出たばかりだというのに、その面影はすでに遠い。
    きっともう、会うことのないひと。
    「目の覚めるようなお方だった。お美しくて、背が高くて、見事な金色の髪をお持ちで、とても凛々しくていらしたわ。
    でも…」
    「でも?」
    言葉を途切れさせたわたしに、ばあやはもっともらしい顔をする。
    「憧れが強過ぎた分、ご本人にお会いしたらがっかりなさったとか?」
    まさか。
    理知的な青い瞳。軍服がよく似合う颯爽とした身のこなし。
    「思い描いていた以上に素敵な方だったわ」
    でも……
    思った以上に、かわいらしい方だった。

    『私には身分など少しも関係ないのに』

    あの夜、レニエさまのお客さまのために、わたしは初めてオスカルさまのお部屋へうかがった。
    オスカルさまのお側に上がりたくて、手を尽くしてなんとかジャルジェ家に入りこんだわたし。
    しかし、行儀見習いとしてわたしがもらえたお役目は、レニエさま付きの侍女だった。
    それでもしばらくは、おとなしく機会をうかがっていた。
    同じお屋敷に住んでいるのだから、いずれオスカルさまにお目通りできるだろうと。
    けれど、ジャルジェ家のお屋敷は見た目以上に奥まって広大で、当主の翼棟に住むレニエさまと次期当主の翼棟に住むオスカルさまでは、わたしごときの立場には接点がなかった。
    せいぜいレニエさまのお見送りのときに、遠くお姿を眺める程度。
    それだって、用もなくわたしから駆け寄ったりしたら、きっとオスカルさま付きの侍女にとがめられる。
    わたしは明るく悪気のない天真爛漫なバカ娘を装って、レニエさま付きの侍女たちのあいだでもめ事を起こした。
    配置変えを目論んだのだ。
    あからさまな不手際を起こせば、家に戻される。
    わたしはまるきり悪意とは取りづらい、微妙なさじ加減で、次々と問題を起こした。
    しかし、オスカルさま付きの侍女は特に質のよい者で固められており、わたしなどが入りこむ隙は見つけられなかった。
    もう駄目かもしれない。
    過ぎていく毎日に、徐々にあきらめ始めていた。
    あの夜は、そんなわたしにとっての、千載一遇のチャンスだったのだ。
    レニエさまのお客さまが、思いついたようにオスカルさまにもお会いしたいと言い出した。
    夜もふけ始めていたし、急なことでもあったので、たまたま近くにいたわたしに声がかかった。オスカルさまをお呼びしてくるようにと。
    待ち続けた機会。
    これを逃せばもう、オスカルさまに近づけることはないだろう。
    わたしは急ぎ、次期当主の翼棟へ向かった。
    行儀見習いに上がってから、初めてうかがう翼棟。
    もっとも重厚な扉を目指し、わたしはそこをノックしようとしたのだけど。
    『開いてる…?』
    暗い廊下の奥、その扉からは極めて細くだが、灯りが漏れていた。
    どうしよう。
    一応、形だけでもノックをしようと、わたしはタイミングをはかる。
    そこに、あの台詞が聞こえてきたのだ。
    『相手が私じゃなければ、おまえは日陰の身にならずにすんだ。この先だって、私たちはずっと人目を隠れた秘密の関係でしかいられない』
    なんてこと!
    近衛将軍家の令嬢が、従僕と愛しあっているなんて。
    ひとに知られれば、平民など、伯爵家の姫をたぶらかしたとの責めを受け、成敗されても文句は言えないというのに。
    『私にだって、みんなの前で好きな男を私のものだと言いたいときもあるし、逆にそう言われたいときもあるさ』
    わたしは扉に張りつき、騒ぐ胸を懸命に落ちつかせた。
    だんだんと涙が混ざるオスカルさまの声。
    必死になだめるアンドレの気配。
    扉を隔てていても、2人の真実の想いは、まだ恋も知らないわたしにさえ哀しく伝わってきた。
    そう。
    わたしはひとを愛したことがない。
    お屋敷に上がるふた月ほど前に、父の意向で婚約が決まった。
    わたしは恋もろくに知らないまま、好きでもない男に嫁ぐのだ。
    女の子なんてそんなものだし、それについて大した感慨はないけれど。
    ただそのとき、無性にオスカル・フランソワというひとに会いたくなったのだった。
    わたしが唯一、憧れたひと。
    子供の頃、サン=ドニへ向かう王妃さまの馬車の列を見に行ったら、童話に出てくる王子さまのような近衛士官がいた。
    真紅の軍服と金色の髪が鮮やかで、わたしは王妃さまの馬車よりも、馬上のそのひとばかり見ていた。
    家に帰ってからも、そして、それからしばらく経っても、そのひとのことばかりを考えていた。
    今思えば、それは一目惚れというものだったのかもしれない。
    成長するにつれ、思い出すことは減っていったけれど、それでもそのひとの鮮烈な印象はときおり胸に甦った。
    しかし、わたしがそのひとのことをきちんと知ったのは、ずいぶんあとになってからだ。
    うちに出入りしていた仕立て屋が、珍しい生地を探し求めて相談してきたのだ。
    とある大貴族のご令嬢が、花婿選びの舞踏会を開くという。
    『衣装にはどれだけ贅を尽くしてもよいという触れ込みなのでね。気に入っていただければ御用達になれるかもしれないと、パリ中の仕立て屋がこぞって試作品を持ちこんでいるんです。うちも負けていられませんよ』
    漏れてくるお父さまと仕立て屋の会話を聞くうちに、わたしはそのご令嬢が、あの日の真紅の近衛士官だと気づいた。
    オスカル・フランソワ。
    あのひとがジャルジェ家の末姫だったなんて!
    仕立て屋の話は、自然とジャルジェ家の噂ばなしに移っていく。
    わたしは耳をそばだてて聞き入った。
    抗う術もなく父将軍によって決められたという、そのひとの数奇な運命に。
    それは父の考えで実子とは公にされず、懇意の商家の娘として育てられたわたしには、どことはなしに共感を覚えるものだった。
    結局、その舞踏会を派手に壊したというオスカルさま。
    父に婚約を命じられとき、わたしは彼女に会いたいと思う気持ちが抑えきれなくなった。
    会ってなにが変わるわけではないけれど、無理やりにでも理由をつけるとしたら、それは子供の頃から胸の奥底に潜んでいた淡い気持ちへの決別というところだろうか。
    あるいは、父将軍の薦める良縁を蹴ったというあの方は、父の取り決めた婚約を断ることのできないわたしの、ただひとつの光り。
    どこまでも憧れる…
    お父さまには、結婚前に少しだけ奉公のまねごとをしてみたいのだと言った。
    その裏で父のつながりを駆使し、苦労してジャルジェ家に入りこみはしたけれど、薄暗い廊下の片隅で、まさかこのような秘密を知ることになろうとは。
    わたしはそうっと扉を開き、気配を消して、言い争う2人に近づいた。
    『なんておかわいそうなオスカルさま!』
    深くまでは知らないふりをして、わたしは2人のあいだに割りこみ、かき回し始めた。2人の言い争いを聞いた瞬間から、わたしはオスカルさまのささやかな欲望を叶えて差し上げようと決めていたのだ。
    そこに自分の願望を重ねていたのかもしれない。ただ従順に流されていくだけのわたしの。

    見習い侍女でしかないわたしには、ジャルジェ家ではなにもできない。
    どうしても協力者が必要だった。
    無邪気なふりをして、まずはジュリさんを巻きこんだ。
    オスカルさま付きの一の侍女。
    マロンさんをのぞけば、オスカルさまの信頼がもっとも深いひと。
    わたしは巧みにジュリさんを嫉妬させ、この計画の深みにはめていく。
    それと同時に、談話室に集まる使用人たちの中で、口が堅そうな忠義心の強い者だけに、偶然を装って、オスカルさまには恋人がいるのだと漏らした。
    思わせぶりなことを吹きこみ、さも自発的にそうなったかのように、立ち聞きに導いていく。
    まことしやかにオスカルさま不倫説を広め、ハゲ上がってブサイクな恋人像を作り上げた。
    さすがにジャルジェ家の使用人たちは堅くて、なかなかほだされてくれなかったけれど、わたしのちょっと調子に乗った様子にイライラしだし、それがかえって皆を団結させることになった。
    敬愛するオスカルさまの一大事と信頼を、外から来た小娘に任せておけないと思ったのだろう。
    ムカつく対象が1つあると、ひとはまとまるものだから。
    わたしはオスカルさまのために、ドレスと凝った下着を用意した。お湯浴みのお世話をしてだいたいのサイズは判ったので、お父さまにお願いして作らせたのだ。
    アンドレとオスカル。
    2人がただの恋人同士として、結ばれますようにと。
    わたしの勧めた妙薬と薬湯の効き目で、オスカルさまはみるみると美しさを増していった。
    もう、誰の目にも判るぐらい。
    それを見たお屋敷の女の子たちは皆、わたしに薬湯をねだったし、それはせいぜい手肌の調子を整える分ぐらいだったので、わたしも気軽に分けてあげたけれど。
    でも違う。
    この数日でオスカルさまがよりおきれいになられたのは、妙薬や薬湯のせいなんかじゃない。
    たった1日でも、愛する人と心のままに過ごせるのだという喜びが、オスカルさまを内側から輝かせていた。
    匂い立つような女らしさとともに。
    それにしても。
    2人がお忍びデートに出かけた夜、談話室の秘密を共有しあう面々の、大盛り上がりだったこと!
    お帰りの遅れているオスカルさまに、皆、さまざまな心配と憶測をしていた。
    男性陣は“なにも父親ほども年の離れたハゲ上がったブサイクじゃなくても”と、もったいながり、女の子たちは“たぶんこんなデートをしているはず”といった妄想話に花を咲かせる。
    けれど会話の途切れ目ごとに、誰からともなく同じ言葉がつぶやかれた。
    『大丈夫かしら』
    『アンドレのシスコンは、度を超えているから』
    『気を確かに持ってくれればいいけれど』
    わたしは澄まして聞いていたけれど、おかしくて仕方なかった。
    そのうちジュリさんが談話室にやって来て、オスカルさまは今夜、お帰りにならないと告げた。お忍びデートの帰りにジュリさんのご実家にお寄りになり、そこで引き留められてしまったという。
    オスカルさまが殿方と外泊!?と、皆が一瞬、色めき立ったけれど、理由を聞いて一気にしおれ、その言い訳に納得したようだった。
    …お泊まり、か。
    わたしはひとり、ほくそ笑んだ。
    2人が今頃、甘い夜を迎えているのではないかと。
    気の短いふりをして、照れをごまかすオスカルさまが目に見えるようだった。
    お湯浴みのあとにでも、あの黒ネコをお試しになることを祈っていたわたしだけれど、どうやらあの夜、恋人同士のあいだにはなにもなかったらしい。
    下着などの女の子用のお支度を詰めた小さい方のトランクは、開けられた様子がなかったそうだから。
    「なかったらしい」とか「なかったそうだ」とか、ここにきて急にわたしが曖昧になるのは、このお忍び計画が終わったとたんに、皆がピシッと通常の職務に戻ったからだ。
    さすがと言えば、さすが。
    今回の件でわたしが暗躍できたのは、ほかの使用人たちが仕事を代わってくれたり、レニエさま付きの侍女頭に、たびたび勝手な行動を取るわたしのフォローをしてくれたからだ。
    けれどそれは、オスカルさまの恋を応援するためであって、決してわたしのためではない。
    お忍びデートが終わった翌日から、わたしは自分の仕事や作法、刺繍などの習いごとに追われ、それまで通りオスカルさまとはなんの接点も持てない生活に戻ってしまった。
    ただ、アンドレとは厨房などの使用人の出入りする辺りで顔を合わせることがあったので、少しずつ探るうち、やはりあの夜はなにも進展がなかったらしいと推測できた。

    オスカルさまとはもう関われないまま日々は過ぎ、昨夜、談話室でわたしの送別会があった。
    ほんの数人でのお茶会だったけれど、皆、お忍びデートの一件に関わった女の子たちだった。
    お菓子を食べながら2時間ぐらいおしゃべりして、そろそろお開きという頃、アンドレが談話室に入って来た。自分の仕事が終われば、オスカルさまのお部屋で過ごすことの多いアンドレが、自分から談話室に来ることはあまりない。
    『あら、アンドレ。珍しいのね。引っぱりこまれたわけでもないのに、談話室に来るなんて』
    侍女の1人がそう言うと、彼は穏やかな笑みを浮かべながら寄ってきた。
    『エマに用があってね』
    『おおっ?どうしたアンドレ。告白か?』
    別のテーブルでくつろいでいた男性陣から、ヒューヒューとふざけた声があがる。彼の笑顔はやれやれという苦笑に変わった。
    そんなことないと知っていて、皆、面白がっているのだ。
    もちろん彼にもそんな空気を楽しむ茶目っ気があり、わたしの隣に割りこんで座ると、ふわりと肩に手を回してきた。
    『判っているなら、エマと俺を2人きりにしてくれないか』
    その言い方はものすごく判りやすくキザで、声音も表情もきっちり作っていて、わざとらしさに皆、ゲラゲラ笑った。
    でも、なにか話があるのだろうと察した女の子たちは、ひとしきり笑うと別のテーブルへと移っていった。
    アンドレがするりとわたしの肩から手を離し、距離を置く。
    そうした所作は先ほどのキザっぷりから一転して、とても紳士的だった。
    そのさり気なさには大人の男の余裕が感じられ、すべてを知っているわたしでさえ、少しときめいてしまった。
    オスカルさまが愛しているという、この男…
    アンドレはポケットから小さな箱を取り出す。
    『これを結婚式に使って欲しいって』
    『オスカルさまが?』
    開けてみると、小さな美しい耳飾りだった。
    けっこう高価そうな。
    『わぁ~、嬉しいですぅ。でも、こんなものいただけないわぁ』
    わたしはそれを、押し戻そうとした。
    けれど。
    『あげるんじゃないよ』
    『え?』
    『貸すんだってさ。花嫁は結婚式で、なにか借りたものを身につけるといいそうだから。
    いつか返してくれって。そのときには、お手柔らかに頼むって笑ってたよ』
    最後に付け加えられた一言に、ウケてしまった。
    相当ウザかったんだろう、わたしは。
    でも、恐らくもうこの屋敷に来ることのないわたしには、この耳飾りを返す手段がない。
    わたしはしばらく考え、そして妙案を思いついた。
    ささやかな欲望を抱える、恋人同士のために。
    『ねぇ、アンドレ?あたしが嫁ぐのはね、美しい海岸線が自慢の田舎町なの。夫になるひとは、父親が一応地元の名士でね。そこそこの館に住んでるのよ、ゲストルームがいくつもあるぐらい。あたしが嫁いで落ちついたら……
    オスカルさまを連れて、お泊まりに来てくれないかしらぁ』
    『え?』
    『だって遠いし、日帰りはムリだし、嫁のあたしにはベルサイユに遊びに来る自由なんてないだろうし。オスカルさまから来てくださらなきゃ、コレ、お返しできなぁい』
    『それは…あいつに聞いてみないと判らないな。仕事もあるし』
    彼は落ちついてそう言ったけれど、絶対気を惹かれているに決まってる。
    『あ。そういえばあたし、オスカルさまのトランクにこっそり黒ネコの勝負下着を忍ばせて、そのままだったわぁ。きっとまだお持ちね。いつか着てくださらないかしらぁ』
    そう言ったわたしは、そのあと素早く彼の彼の耳もとに寄り、声をひそめた。
    『アレを初めてご覧になったときのご様子から察するに、ご本人はすごく否定していたけれど、あの表情はけっこうキライじゃない気がするわ』
    そう言ったときの、彼のどぎまぎした顔!
    今思い出しても笑えてくる。

    「お嬢さま?」
    ばあやの声に、わたしは気を取り直した。
    まだここは、揺れる馬車の中。
    「思い出し笑いよ。なんでもないわ」
    「思い出し笑い?お嬢さまが?お疲れなのではありません?」
    失礼な。わたしだって思い出し笑いぐらいするというのに。
    でも。
    「そうね。バカのふりをするのも疲れたわ。
    …ねぇ、ばあや。家に戻る前に、ちょっと父のところに寄りたいわ。ジャルジェ家に入りこむために、ずいぶん父の人脈にお世話になったから」
    「此度のことで、ジャンさまになにか有益な情報でも得られましたか?」
    ばあやの言葉にイラッとし、わたしはわざと大きく、忌々し気なため息をついた。
    「いい加減にしてちょうだい。今回のことはわたしの個人的趣味だと何度も言ったでしょう!父の活動とは関係ないわ。だいたい父はもう、療養のために活動の第一線からは退いているじゃないの。アルトワ伯もご理解くださっていることよ」
    「ですが」
    「それに、そういったことから遠ざけたくて、父はわたしを公にはしなかった。今回の婚約だって、不穏になってきたパリからわたしを遠ざけるために、志を同じくする方へ嫁がせようとお考えなのだわ。最近父も、身の危険を感じているそうだから」
    やがて馬車が止まり、わたしだけが降りた。
    門に刻まれた、頭文字のMを模した装飾。
    わたしがついに名乗ることのなかった名。
    「これはお嬢さま!急なお見えで」
    「すぐに帰るわ。馬車を待たせたままだから。
    父はまた薬湯に入っているの?」

    ジャルジェ家の人々がすぐに日常に戻ったように、わたしもまた、こうして日常へと戻っていった。


    FIN
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